「癡」とは、縁起・空の理法についての無知、無理解、愚かさのことです。
現代的に言い換えると、コスモスの理への無知・無理解といってもいいでしょう。
自分が縁起・空の世界、宇宙の真っ只中に生きていながら、そのことを知らない、理解していないのです。
自分が自分だけで自分としていつまでも生きていられるかのような錯覚です。
これは、「無明」とほぼ同義語です。
しかし、すでにおわかりのとおり、唯識の特長は、無明をマナ識における4つの根本煩悩とりわけ「我癡」と意識における「癡」の2つに分けて捉えているところです。
幸いにして、意識上の愚かさは本気で学べば比較的容易に克服することができます。
しかし無意識に潜み強固なシステムになってしまっている「我癡」は、簡単には克服できません。
さらにしかし、「簡単ではないが克服は可能である」というのが仏教の基本的メッセージです。
この文章は、「克服は可能であるが簡単ではない」と前後を入れ替えることもできます。
そして自分の言葉として、どちらの順序で言うかは選択の問題です。
私は、とても幸運なことに、いい師やいい書物、とりわけ『摂大乗論』などに出会って、意識上の「癡」はかなりクリアできたような気がしていますし、坐禅そして六波羅蜜の実践を通して、マナ識の「我癡」もいくらかは浄化できてきているかなと感じていますので、「簡単ではないが可能である」というほうの言葉をモットーとして採用しています。
可能だと思う一方、やっぱり今生で完成するのはなかなか、きわめて困難だろうな、とも思っていますが。
それにしても、つながり-かさなりコスモロジーと仏教の学びのお陰で、「宇宙と私はつながってひとつ」、「すべてのものと私はつながってひとつ」という考え方は本気でそう思えるようになっています。
本気でそう思いながら見ると、世界が輝いて見えるから不思議です。
この季節、「宇宙が今・ここで桜として花開いている」と感じると、桜がいっそう美しく見えます。
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