散歩者goo 

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昨日記150805水(猛暑日続く 日報記載なし )

2015年08月08日 18時21分57秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴  最高/最低℃ =36.7  27.6
最近、夜12時頃の室温が32℃から33℃で、6時頃の室温は30~31度前後で湿度は60%超えているため、寝苦しく夜中に何度も目を覚ます。
そのため昼寝をする時間も長くなっていて、日中も食事や食材の買い出しの他は、家事関連以外のことはほとんどしなくなった。
夕方にファストフードに行ってアイスコーヒーを飲みながら体を冷やすのと、寝る前の水シャワーも生きるために不可欠になった。
日中は汗をかきっぱなしで、Tシャツはいつも濡れている。
8月5日前後は毎日何度か記帳している予定日報表への、記帳すら放棄してしまい、その間の生活の手がかりを、レシートの打刻時間で知り思い出す始末である。
多分4日から5日の夜は寝苦しく、朝からボーっとしていて、朝食後、昼まで昼寝をしたらしい。
パンが無くなったので、近くのスーパーに買い物に行ったほか、夕方にファストフードにコーヒーを飲みに行った以外は、家でごろごろしていたようだ。
無論室内の温度は高くても、水分補給や、食事は十分とっており常に近くにミニファンを置いて風に当たっているので、熱中症の心配とか、健康上の問題は無く、元気であるが、暑さの為注意力や集中力が無くなっているのは事実である。
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8月6日の奇遇?

2015年08月08日 00時58分55秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
以下の一文は8月6日深夜(8月7日1時頃)書き上げ、そのまま投稿していなかったものです。

先程までTBSのニュース23の原爆特集番組を見ていた。
その時2つの内容で、もしやという思いに駆られた。
一つは、爆心地から数百メーターの地点で無傷で生き残った男性の話だ。
もう一つは、広島県立福山工業高校という学校である。

私には、2人の兄がいた。
一人は長男で、私が1-2歳の頃白血病で亡くなった。
当時旧制中学校の工業専門学校に通っていて、笠岡から福山へ通学していたという。
長男は、私をよくかわいがってくれたというが、私にはまったく記憶がない。
私は、大阪市の現住所で生まれ、すぐに両親の実家に疎開したという。
だから、小学生の頃、両親の生家に帰省すると、「大きくなった」と言って大歓迎された。
その時、母方の家では、長男が私をかわいがっていたという話を、繰り返し聞かされたが、私にはまったく実感がないので、そういうことなのだろうと思っていた。
私が社会人になって、いろんなことが理解できるようになり、長男が白血病により亡くなったのは、原爆の影響ではないかと思うようになった。
その長男は、漁師町の瀬戸内の海を見下ろす風光明媚な墓地で一人眠っている。

ところで、福山と広島がどれだけ離れているか知らないが、少なくとも現在で言う工業高校生であれば勤労奉仕で原爆投下後、広島に行ったかもしれないと想像したりした。
何らかの形で、長男が二次被ばくしている可能性も無くはないと思うようになった。
しかも、当時旧制中学の工業専門学校がどれだけの数福山に存在したのだろう。
大阪でも、戦前から続く工業高校は府・市合わせても指折り数えるほどしかなく、非常に少ない。
もし、福山で戦前から続く工業高校が一つしかなければ、その学校は、長男の通っていた学校であり、その学校がが、TVのドキュメントに登場していたということになる。
その意味で、長男と福山の工業高校という縁に、親しみを感じた。
番組では、広島県立福山工業高等学校が、原爆被爆時のCG復元動画を作る様子をドキュメントにまとめていた。

もう一人の兄である次男は、私より9歳年上であったが、10年近く前にパーキンソン病でなくなった。
次男は東海銀行に勤務していたが、先輩に広島の爆心地から数百メーター離れたビルの地下室で被爆した人がいて、全く無傷で助かったと、私に話したことがあった。
私はその話を聞いた時に、半信半疑だった。
次男が、その人から聞いた話では、地下室から出て表に出たときは、物音は無くシーンとしていたという話が印象に残っていた。
その人は、今も毎年検査を受けていると言っていた。
ひょっとすると、TVで取り上げられていた男性が、兄の先輩ではないかと思った。

ただ、その人が被爆したビルは第百生命と言っていたが、兄の勤務先は東海銀行(初めは大阪支店<兄は拳銃強盗(犯人はゴンゼンゴ)の現場に居合わした。>で勤務し、その後名古屋にも転勤した。)で、東海銀行は名古屋が中心ということなので、広島とは関係がなさそうに思えるのだが。

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