散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

昨日記141123日(紅葉見物・哲学の道・くろ谷 三条界隈ギャラリー廻り)<追>

2014年11月24日 13時28分17秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇  最高/最低℃ 平均/最低% =20.4  9.2  64  43 
昨日は、時折曇の時もある天気だったが、寒さも和らぎ、行楽日和となった。
私は、前日の疲れもあり、休日モードで7時前に起きのんびりしたペースで朝を過ごした。
朝食後、前日のみんぱくワークショップは、昨日記に書くことが多く月曜日に書くと忘れてしまうので朝から書くことにし、仕上げて昨日記を投稿した。
ここ数日TVで紅葉情報が多く話題になっていて、昨日記を書きながら紅葉見物に出かけたいという欲望が湧いてきた。
しかし、呪文のように繰り言を唱えている私の経済状況が気になり、心の中でせめぎあっていた。
ブログを書き終えた後、紅葉見物に行くための費用考えた。
京都までの交通費だけに限ると、千円余りで済む。
それなら、今の経済状況でも行くことのできる範囲だ。
その範囲で、行けるプランを考えた。

昼は、自宅で食事してから出発し、京阪で出町柳まで行き、哲学の道を歩き法然院にも行く。
可能であれば、未だ一度も訪問したことのない黒谷の金戒光明寺に足を伸ばし、その後三条界隈のギャラリーを回り京阪三条から帰る、というプランを立てた。
無論、拝観料のいるところには、行かないことにし、くろ谷からすぐそばの紅葉の名所として有名な真如堂には、拝観料がいるので行かないことにした。
また、詳しい地図は持っていなかったが、現地調達することにした。

食事を早く済ませ、12時半ごろ家を出た。
京阪電車は、この時間空いているのだが、昨日はぎゅうぎゅう詰のラッシュ時ほどではないが、肩や体が触れ合うぐらい混んでいた。
電車の中で、三条で降りるか、終点の出町柳で降りるか迷ったが、今の日没は4時半ぐらいで4時過ぎになると紅葉が見にくくなるし、三条界隈のギャラリーは5時から6時までやっているので、出町柳で降りて行くことにした。

出町柳を降りるときに、駅の事務室で1万6千分の一の地図がついた京阪沿線ウォーキングマップを入手した。
駅を上がって小さな広場で、入手した地図しばらく見ながらコースを確認した。
出町柳から哲学の道を通り、三条界隈のギャラリーを回るとかなり長距離になり、ざっと見たところ8km程度以上になりそうだ。
哲学の道は、多分年に一度以上多い時には年に5回以上歩いている。
10年以上前は、哲学の道を三条から出町柳まで歩くと、くたくたになって疲れていた。
元々山道でも24km歩く体力を持っているが、哲学の道は、気を抜くせいか、または寄り道するせいか、なぜか疲れやすかったので、途中疲れるとプラン変更して、バスで三条まで帰ればよいと考えた。

出町柳を出発し、昔ストイックな雰囲気でクラシックを聴きたくてよく通った名曲喫茶の前を通ると、今もやっていて懐かしかった。
更に進むと、京大の学祭が行われ、多くの若者が歩道を歩いていた。
大学前には、いくつかの古本屋があり、多分質の良い古本を売っているので、見たかったが、先を急ぐのでやめた。
この辺りには、レトロな雰囲気のある喫茶店が点在したり、マスコミでもよく紹介される老舗パン屋も喫茶コーナーが人気で行列が出来ていたり、その他学生向けの店が多くあって楽しい街並みが続き、時間があれば遊びに行きたいところだ。

しばらく行くと急に人通りが増え、銀閣寺への参道と、哲学の道への分岐点に出た。
分岐点の手前にある白沙村荘庭園の紅葉は美しく色づいていた。
この辺りにギャラリーがあるようなのだが、調べていなかったので、行かずそのまま哲学の道に向かった。
疎水には、大きな鯉が泳いでいて、道に植えられた桜の紅葉は散りかけていたが、カエデやモミジの木はほとんどはなく残念だった。
人出は予想通り多く、道端のオシャレなカフェや店はどこも人で一杯だった。

法然院に行った。
人は相変わらず多く写真を撮る人も多かった。
境内はいつ見ても美しいが、人で一杯だった。
一度人気のない平日に来てみたいと思った。
法然院の境内の施設では、現代作家が展覧会をしていた。
そこでしばらく若い作家と話をした。
作家の作品は、アメリカでも売れているといい、大阪ではスペクトラムギャラリーで扱っているという。

東山の紅葉は今が見ごろで、文字どおり真紅に色付いているモミジの木もあれば、紅葉が始まったばかりの木もあったり、未だ緑のモミジもある。
全体とすれば、京都の東山の紅葉は8分ぐらいかもしれない。
しばらく歩いて、黒谷への分岐に出会ったので、黒谷に向うため哲学の道を西に曲がり、どんどん坂を下った。

地図を読むのは得意な方だが、金戒光明寺の直近で道に迷い、駐車場で管理人に道を尋ね細い裏道を教えてもらったが、よく見ると地図に載っている道であった。
しかし、1万6千分の一の地図には目印になるほどの大きな駐車場は載っていなかった。
その道を行くと、黒谷南門に出た。

確かに金戒光明寺のモミジは美しかった。
三重塔のある山も上ったが、周囲はかなり由緒ある、古い墓地で、大きな五輪の塔もたくさんあった。

金戒光明寺で随分時間を消費し、3時半を過ぎていた。
元の哲学の道へ戻るには、15分以上坂道を上らなければならない。
元へ戻るのをあきらめ、岡崎に出て動物園から美術館を通り、白川沿いにギャラリー16に行くことにした。

ギャラリー16に行くと、一階にポスターを張ってなかったので休廊と思い次のクンストギャラリーに行き、その後モーニングやスズキや虹やJARFOに行って、三条から帰ることにした。
各ギャラリーを回ったが、それぞれの感想を書くとかなり長くなるのでやめておく。
今回はそれぞれのギャラリーで、作家の友人が来ていて、熱心に話し込んでいたので、作品について作家から直接聞くこともできなかった。
横で作家が説明しているコンセプトを聞いていて、、「こじつけじゃないの」と思うようなものもあった。

現代美術には、わざと恰好を付けるため、難解な言葉や消化不良の言葉を使ったりこじつけのようなコンセプトが多いと常々感じている。
難しい言葉を使うと高級に見えると勘違いしているのではないか。
使っている語句の定義がきちっと理解出来ていないまま、そうした言葉を融通無碍・変幻自在に使っている場合を見ることも多い。
以前、そうした作家の問題を指摘すると、これはこの意味で使っていますと、聞いたことのない感覚的な定義を持ち出され、あっけにとられたこともあった。
現代芸術(美術に限らず)に関するコンセプトやステイとメントや評論には、注意が必要だ。
定義がしっかりと押さえられていなければ、議論や論理展開や批評のしようがないのだ。
言葉を融通無碍に使用すると、混乱しか残らないし、分かる人からは作家のレベルを見破られる。

三条からの帰りの電車は、ラッシュ並の混み方であった。
7時前には、出発駅につき、いつもの店でお茶を飲み一休みして帰宅した。
いつも、これだけ歩くと、かなり疲れを感じるのだが、近年その疲れ具合が軽くなった。
体力がついているように感じている。


散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
コメント