昨日は、古代史の会の講演会があったので行くつもりであったが、いつものように土曜日ということで、午前中TVを漫然と見すぎ、時間があるのに、ルーチンをやってなく、午後に昨日記を書く羽目になった。
そこで、講演会が私にとって面白そうなものかを考えるために、講演者の研究を調べてみた。
古墳と記紀のの関連に関しての本も出されていて、橿原考古学研究所の方なので面白そうだが、最近は私の関心は弥生とか縄文関係の本を読んでいるので、今回はパスすることにし、昨日記を書くことに専念した。
昨日記投稿後はいつもの土曜日の通り、西天満に行きいつも行く画廊を廻って、天満橋で本を読んで帰宅した。
乙画廊のトヨクラタケル氏のフェルトや紙を使った、コラージュ作品には、その技におどろかされた。
別のギャラリーでの作品で思ったことは、哲学的なテーマが背景にある場合は、どれだけその哲学や思想を理解し反映させているのかまたは象徴化しているのか、見る方も、製作する方も難しい問題だと思った。
ニュースメモをやめて、継続する日常作業の負担はずいぶん軽減されたが、この昨日記ですら、負担に思うことがある。
書くべき記事の内容が、そんなにあるわけでない。
日常は、誰でも退屈なものであり、多くのことを見過ごしてそのまま気付くことなく忘れ去っていく。
退屈な中から何かを、掘り出し、文章化し、意識化し認識することにより、改めて見過ごしていた物事に、価値を発見することがある。
書き進めるうちに、何かにはっと気付いたりすることもあるし、構造として見えていなかったものが、意識の下に見えてくることもある。
そうした出会いを大切にし、蓄積していかねばと思う。
そこで、講演会が私にとって面白そうなものかを考えるために、講演者の研究を調べてみた。
古墳と記紀のの関連に関しての本も出されていて、橿原考古学研究所の方なので面白そうだが、最近は私の関心は弥生とか縄文関係の本を読んでいるので、今回はパスすることにし、昨日記を書くことに専念した。
昨日記投稿後はいつもの土曜日の通り、西天満に行きいつも行く画廊を廻って、天満橋で本を読んで帰宅した。
乙画廊のトヨクラタケル氏のフェルトや紙を使った、コラージュ作品には、その技におどろかされた。
別のギャラリーでの作品で思ったことは、哲学的なテーマが背景にある場合は、どれだけその哲学や思想を理解し反映させているのかまたは象徴化しているのか、見る方も、製作する方も難しい問題だと思った。
ニュースメモをやめて、継続する日常作業の負担はずいぶん軽減されたが、この昨日記ですら、負担に思うことがある。
書くべき記事の内容が、そんなにあるわけでない。
日常は、誰でも退屈なものであり、多くのことを見過ごしてそのまま気付くことなく忘れ去っていく。
退屈な中から何かを、掘り出し、文章化し、意識化し認識することにより、改めて見過ごしていた物事に、価値を発見することがある。
書き進めるうちに、何かにはっと気付いたりすることもあるし、構造として見えていなかったものが、意識の下に見えてくることもある。
そうした出会いを大切にし、蓄積していかねばと思う。