教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学校日誌を用いた教育実践―埼玉県川口市芝小学校

2016年12月17日 23時06分23秒 | 教育研究メモ

 やっと仕事ができそうな体調になってきました。ぎっくり腰から強烈な偏頭痛に見舞われ続けた1週間超…長かった…きつかった…

 さて、教育史研究・教育史教育の可能性について考える上で、おもしろい実践がニュースになっていました。埼玉県の川口芝小学校で、自校の学校日誌をつかって戦時中の学校生活を学ばせる実践を行ったというニュースです。このニュースからは、学校日誌という史料そのものの可能性や、その史料の意義を解釈して学校現場や世に知らしめる教育史研究の可能性、そして自校の所蔵する教育史料を教育実践に活用することができる教師を育てる教育史教育の可能性、などを感じました。今後の教育史の方向性を模索する一つの材料になればいいなと思っています。教材研究・開発、という観点は大事かもしれませんね。

 以下、電子ニュースはいつの間にか消えることがあるので、以下に引用させてください(埼玉新聞様、慎重を期しているつもりですが、何か問題があればお知らせ下さい)。

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川口芝小、「学校日誌」を教材に 児童ら、戦争の中の学校生活を学ぶ

 川口市芝の市立芝小学校(石川庸子校長、児童数375人)で1日、6年生68人を対象に、同校に残された貴重な「学校日誌」を基に戦争の中の学校生活を学ぶ授業が開かれた。学校日誌の1944(昭和)19年10月16日の「全校イナゴ取り」の記述に、子どもたちは「それほど食べ物がなく、苦しい生活だった」と読み取った。
 市文化財課学校連携担当の坂本圭一郎さん(37)による出前授業で、学校日誌の記述を抜粋した資料を教科書にして行われた。
 42年(昭和17)年4月18日の「12時30分空襲警報発令 午後3時52分解除」の記述に、坂本さんは「この空襲が日本が受けた初の本土空襲で、東京や川口でも被害があった。学校では4時間も暗い穴の防空壕(ごう)に避難していたことも分かる」と説明した。
 空襲は隊長の名前から「ドゥーリットル空襲」と呼ばれている。坂本さんはさらに空襲で12人が死亡した川口市弥平町の「日本ディーゼル工場」(戦後に日産ディーゼル)の被害写真をスライドで映して解説した。
 日誌には「戦地に向かう教師を駅まで見送った」「みんなで麦踏みをした」「カエルやエビガニを取った」など、戦争中の学校の様子が書かれている。授業は、この記述を基に子どもたちは当時の学校生活がどのようなものだったのかをイメージした。
 内野夢音さんは「川口でも、この学校でも戦争が激しくなっていた」。山口憲太君は「先生まで戦争に行って、人も食料も不足していた」。三輪悠斗君は「空襲警報で4時間も防空壕に入っていたとか、とても苦しい学校生活だった。今の生活に感謝しないといけないと思った」と話した。
 同校の杉本浩司教諭(34)は「今日学んだ歴史の事実を、これからの生き方を考えるために大事にしよう」と子どもたちに呼び掛けた。
 学校日誌は2015年3月、同校の倉庫整理の過程で見つかった。昭和17年度から22年度までの6冊が段ボールに収められていた。学校の近くに住む郷土史家、畦上百合子さんが内容を精読し、戦時下の学校生活が分かる貴重な資料と判明。今年8月の市の平和展で初めて公開された。
 石川庸子校長は「学校日誌は現在なら5年過ぎると破棄する決まり。これを残してくれた歴代の先輩たちの思いを大切に受け継ぎたい」と話している。

 2016年12月5日 埼玉新聞 (http://www.saitama-np.co.jp/news/2016/12/05/11.html)

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