素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

社会活動家・湯浅誠さん・共生の民主主義

2022年08月26日 | 日記
 26日(金)の夕刊の特集に、社会活動家・湯浅誠さんへのインタビュー記事があった。湯浅さんが村長を務めた「年越し派遣村」はインパクトがあった。当時の開村式での挨拶の写真も掲載されているが、2008年12月31日とあり14年も前だったのだと時の流れを改めて思った。「豊かな国」日本と単純に考えていた私に、豊かさの裏に潜む貧困という闇を突きつけられた。という思いがあった。

 それから14年、雇用関係の悪化やコロナ禍も加わり貧困格差の問題はさらに深刻さを増しているように感じる。30年余り、この問題に関わってきた湯浅さんの言葉は平易だが心に届く。その中で湯浅さんが考える民主主義とは何か?という話は特に心に残った。

 「今時点での解釈では、共にあること。共生ですかね。どんなに気が合わない相手でも、同じ空気を吸えることでしょうか」。いわば、相手が出ていくか、自分が出ていくか、二者択一にならないこと。反対に、分断とはどちらかを選び、一緒にいられないこと。「顔を見るのも意見を聞くのも嫌で、すみ分けること」と定義する。

 そのうえで、7月の安倍晋三元首相の銃撃事件には衝撃を受けた。「共生できないという最たる現象です。相手がこの世界から消えるか、自分が消えるか、どちらかだと思い込んで犯行に及んだ。意見の合わない相手とも話し合いのテーブルに座らなければいけないことを、私たちは学び直さなければいけない」と警鐘を鳴らす。

 「それが民主主義なんです。話し合いを可能にするものとして、居場所は重要なのです」


 自殺者の増加と凶悪事件の多発という現象を考える視点を与えてもらった。
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秋の気配を一瞬感じる

2022年08月25日 | 日記
処暑を過ぎた。まだまだ蒸し暑い日が続いているが、それでも秋の気配を一瞬感じることがある。

 朝起きて窓を開けた時、日の出とともににぎやかに鳴いていた蝉の声がない。裏山の方ではツクツクボウシの鳴き声が聞こえるが静寂を破るものではない。

 始業式を迎え、集団登校の集合場所から子ども達の声が久しぶりに聞こえてくる。

 庭のムラサキシキブの実が、日当たりの良い部分から紫になってきた。全部が紫色になった時が本格的な秋。


 芙蓉は朝、開き、夕べにはしぼむ。その花の姿には暑い夏を超えた安らかさを感じる。


 花の時期から見続けてきた栗の木。実もこぶし大になり、完熟してきたという感じ。
 

 天気予報の中で、秋雨前線という言葉が使われてきた。五感で秋の近づくことを感じると嬉しい気分になる。

 
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山口県勢夏の甲子園優勝校は柳井高校だった!

2022年08月24日 | 日記
 息子と一緒にテレビ観戦した第104回全国高校野球選手権の仙台育英と下関国際の決勝は「仙台育英が勝てば東北勢春夏通じて初、下関国際が勝てば山口県勢63年ぶりの優勝」というのがうたい文句だった。

 その時息子が「中国地方だと広島県や岡山県の高校は浮かぶが山口県で強い学校あったかなあ?」とつぶやいた。私は即座に、「下関商業かな?
池永というすごいピッチャーがいた。」と答えが、27年差のある息子には下関商業や池永という名前など頭の中にひとかけらもない。私ですら、自分がいくつの頃だったかがはっきりしていない。仙台育英が優勝したので山口県の話はそれっきりになった。

 ところが息子は気になっていたみたいで、夜になって「優勝したのは柳井高校やで」と報告してくれた。私の記憶にない学校だと言うと「あの板東英二に勝って優勝したらしい。」ときたから「たしか徳島商業やったな」と私も興味を覚え、調べてみた。

 1958年8月8日から8月19日まで阪神甲子園球場と阪急西宮球場で行われた全国高等学校野球選手権大会だったので、7歳の私には記憶がなくて当たり前である。

 この大会は、第40回の記念大会だったので、沖縄の代表が初めて参加したことや優勝旗が新調されたり、引き分け再試合規定が制定されたりと新たな一歩を踏み出したと言っても良いものだと思った。

 決勝戦のスコアを見ると、一方的なゲーム展開のように思える。あの板東が?と気になって調べると、準々決勝で徳島商―魚津が延長18回引き分け再試合となり、徳島商の板東英二投手は6試合で奪三振83個を記録した。とあった。決勝ではおそらくバテバテで本来の力は出なかったのだろうと推察する。

8月19日

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R  H  E
徳島商 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0  4  2
柳 井 0 3 0 1 0 0 0 3 X 7  14 1
(徳):板東 - 大宮
(柳):友歳克 - 久保

 池永投手を擁する下関商業が活躍したのは、その5年後の1963年(昭和36年)になる。私が中学生の頃だったのだと確認できた。

 投手として3季連続で甲子園に出場した。2年時の春は北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高校を10-0で退けて優勝し、夏は決勝の対明星高校戦で完投するが1-2で敗れ準優勝だった。3年の春の選抜は初戦の博多工業に敗れ、夏は県大会で亀井進を擁する早鞆高校に敗れた。とあった。

 プロ野球の西鉄でも活躍したが「黒い霧事件」に巻き込まれ球界を去ったが、いろいろな関係者の話を総合すると身体能力が飛びぬけていて投手としても一流だったが足も速く、打撃センスも抜群だったみたいだ。今でいう大谷選手に匹敵する選手だったようだ。私の記憶に残っている投手の一人だ。

 コロナ禍のおかげで、息子と野球談議ができ、古い記憶が少し整理できた。コロナ禍は悪いことばかりではない。

 
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世の中は広い

2022年08月23日 | 日記
朝刊の「SPORTSかんさい」の特集には目が釘付けになった。
 
競泳選手だった学生時代に、競技力向上のために始めた筋力トレーニングにはまり、20歳で本格的にボディービルに取り組み始め、定職にも就かずトレーニング三昧の毎日、24歳で日本選手権に優勝。3年後にも優勝し、世界選手権でも4位に入賞。広島初となるトレーニングジムを立ち上げ、34歳で引退。その後はジム経営や趣味のゴルフに没頭する。しかし、50歳を前に鏡に映る自分の情けない姿に一念発起、競技にカムバックした。40歳以上が集う「マスターズ大会」に出場し、57歳で日本一になり、その後15回日本一になっている。

 「世の中は広い、こんな人もいるんだ」と特集を読んだ時嬉しくなった。金沢さんのストイックでかつ余裕のある生活とは天と地の開きはあるが私自身が求めているものと同じだと思った。

 この切り抜きは大切に保管し、時々読み返して刺激をもらおう。長年の実践から出る言葉には味がある。残暑にウンザリしていた心にカンフル剤を打たれた気がした。

 
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高校野球・仙台育英の優勝で幕

2022年08月22日 | 日記
 長女からは10日間の隔離期間が終えて今日から出勤するというメールが届いた。軽症で終わり後遺症も心配ないとのこと。むしろ、働きに出るという生活リズムを取り戻すのが大変だとあった。

 息子の方は、スタッフの感染による人手不足がまだ解消されず夜勤の方に応援に入っている。昨夜19時頃に家を出て今日は11時過ぎに帰ってきた。今週は夜出勤朝帰宅という生活になりそうだとゲンナリしている。ニュースでもやっていたが介護施設での感染拡大に伴う運営のやりくりには厳しいものがある。

 そのおかげでもないが、初めて息子と一緒に高校野球のテレビを観ることになった。やはり総合力に勝る仙台育英ががっぷり四つから堂々の寄り切りで優勝した。結果を見れば8対1で大差だが、7回裏の満塁ホームランまでは勝利の女神がどちらに微笑むかわからない展開だった。

 やはり、プロ野球並みの分厚い投手陣5名で勝ち進んできた余力の違いが出たように思った。これで高校野球も長く続いた一人のエースに頼る戦い方からプロ野球のような先発・中継ぎ・抑えという投手の分業制のような新しいスタイルになっていく予感がする。ちょうど金属バットが導入された頃に、犠打を多用した細かい攻め方からガンガン打っていくスタイルで一時代を築いた”攻めだるま”こと蔦監督の池田高校が攻め方に変革をもたらしたように、今回の仙台育英の投手陣は守り方に変革をもたらした。

 104回にして春夏通じて初めての東北勢の優勝となったが、東北勢のこれまでの涙の決勝戦の思い出となると、息子との27年の隔たりを強く感じた。私は真っ先に三沢高校と松山商業の延長引き分け再試合の決勝を口にしたが、1969(昭和44)年の夏の話。私は18歳の浪人時代、息子はこの世にいなかった。息子にとって思い出深いのは2003年夏の東北高のダルビッシュや2009年春の花巻東高の菊池だという。私はその頃は部活で、春や夏の高校野球を楽しむ余裕はなかった。

 かろうじての接点は、1989年夏の仙台育英の大越投手。息子が11歳で、上に13歳、下に6歳の娘2人がいたので部活に時間を使う余裕がなかった。6試合を投げぬいた大越投手の奮闘ぶりはそれぞれの記憶に残っている。

 プロ野球を引退した後、教員免許を取得して山口県の早鞆高校で監督をしていることを知った。下関国際のライバル校だという。ライバル校と母校の決勝戦、巡り合わせの妙としか言えない。
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