素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

高校野球・仙台育英の優勝で幕

2022年08月22日 | 日記
 長女からは10日間の隔離期間が終えて今日から出勤するというメールが届いた。軽症で終わり後遺症も心配ないとのこと。むしろ、働きに出るという生活リズムを取り戻すのが大変だとあった。

 息子の方は、スタッフの感染による人手不足がまだ解消されず夜勤の方に応援に入っている。昨夜19時頃に家を出て今日は11時過ぎに帰ってきた。今週は夜出勤朝帰宅という生活になりそうだとゲンナリしている。ニュースでもやっていたが介護施設での感染拡大に伴う運営のやりくりには厳しいものがある。

 そのおかげでもないが、初めて息子と一緒に高校野球のテレビを観ることになった。やはり総合力に勝る仙台育英ががっぷり四つから堂々の寄り切りで優勝した。結果を見れば8対1で大差だが、7回裏の満塁ホームランまでは勝利の女神がどちらに微笑むかわからない展開だった。

 やはり、プロ野球並みの分厚い投手陣5名で勝ち進んできた余力の違いが出たように思った。これで高校野球も長く続いた一人のエースに頼る戦い方からプロ野球のような先発・中継ぎ・抑えという投手の分業制のような新しいスタイルになっていく予感がする。ちょうど金属バットが導入された頃に、犠打を多用した細かい攻め方からガンガン打っていくスタイルで一時代を築いた”攻めだるま”こと蔦監督の池田高校が攻め方に変革をもたらしたように、今回の仙台育英の投手陣は守り方に変革をもたらした。

 104回にして春夏通じて初めての東北勢の優勝となったが、東北勢のこれまでの涙の決勝戦の思い出となると、息子との27年の隔たりを強く感じた。私は真っ先に三沢高校と松山商業の延長引き分け再試合の決勝を口にしたが、1969(昭和44)年の夏の話。私は18歳の浪人時代、息子はこの世にいなかった。息子にとって思い出深いのは2003年夏の東北高のダルビッシュや2009年春の花巻東高の菊池だという。私はその頃は部活で、春や夏の高校野球を楽しむ余裕はなかった。

 かろうじての接点は、1989年夏の仙台育英の大越投手。息子が11歳で、上に13歳、下に6歳の娘2人がいたので部活に時間を使う余裕がなかった。6試合を投げぬいた大越投手の奮闘ぶりはそれぞれの記憶に残っている。

 プロ野球を引退した後、教員免許を取得して山口県の早鞆高校で監督をしていることを知った。下関国際のライバル校だという。ライバル校と母校の決勝戦、巡り合わせの妙としか言えない。
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