7日の夜、村野中学校2期生代表幹事さんから携帯にメールが入った。同窓会のことかなと思ったら件名に「大阪府立むらの高等支援学校 校歌」とあり((´・ェ・`))ゥゥン?となった。
メールの中身はこういうことである。村野中学校跡地に建設された《大阪府立むらの高等支援学校》の初代校長になられた可知さんが、自分が作詞した校歌の作曲を村野中学校に関係した人にしてもらいたいという思いがあった。そこで旧知の間柄である代表幹事さんに誰か適当な人がいないかという相談があったという。
代表幹事さんは同期の林(旧姓)さんに打診して話がまとまった。林さんは中学の時からピアノが堪能で文化祭でも活躍し高校、大学とその道を極めた方で、先の同窓会でも校歌を歌う時に伴奏をしてもらった。打って付けの人選だったと思う。
7日の開校式に「村野中学校2期生代表幹事」「校歌の作曲者」としておふたりは招待され、校歌の御披露目に立ち会ったのである。その映像をYou Tubeに限定公開したので見てもらいたいとURLを知らせてくれた。
その2番と3番の間奏にさりげなく村野中学校の校歌のメロディーの1節が組み込まれているとのこと。また可知校長先生の歌詞にも村野中学の校歌の1,2番の出だし『交野が原』と『天の川面』が組み込まれているので歌詞のデータも添付してくれた。
しかしである。我が携帯は時代遅れの簡単携帯、YouTubeも添付データにも対応が出来ず。昨日、代表幹事さんにパソコンのほうに再送信してもらい、ようやく動画と歌詞を見ることができた。
大阪府立むらの高等支援学校 校歌
村野中学校の校歌を作詞された初代の南清秀校長先生には公私にわたってお世話になった。大東市で長く勤められてきたが、最後の3年間を枚方市という教育風土の異なる、しかも新設校での学校づくりに邁進された。ベテランと若手の二極化の中苦労も多かったと思うがおおらかにかつ要所を締めて自由に教育実践をさせてもらった。また、職場で知り合った私たちの仲人を快く引き受けてもらった。偶然だが、教頭だった岸先生が仲人第1号で私が第12号。「これで最後やな」と大笑いされた。また、妻の実家から玄米が届くと、今のようにコイン精米機のない時代、田畑も持っていた先生のお宅には簡易精米機がありつかせてもらった。大量に精米できないので30kを付くには半日はかかった。その間、先生の居間でいろいろな話を聞くことができた。そのことが目に見えない力となった。
昭和52年に退職されてからも時折お宅にお伺いしていたが、3年後の冬、「ちょと風ひいたみたいや、寒気がする」と帰りがけに聞いた1週間後に急逝された。そのことが一番惜しまれる。村野中学校の校歌の詞には先生の教育者としての魂が込められている。その言葉が新設の支援高等学校の校歌に使われたことは望外の喜びである。
代表幹事さんのメールを読んだ時、男女の結びつき以上の『縁は異なものあじなもの』を思った。
メールの中身はこういうことである。村野中学校跡地に建設された《大阪府立むらの高等支援学校》の初代校長になられた可知さんが、自分が作詞した校歌の作曲を村野中学校に関係した人にしてもらいたいという思いがあった。そこで旧知の間柄である代表幹事さんに誰か適当な人がいないかという相談があったという。
代表幹事さんは同期の林(旧姓)さんに打診して話がまとまった。林さんは中学の時からピアノが堪能で文化祭でも活躍し高校、大学とその道を極めた方で、先の同窓会でも校歌を歌う時に伴奏をしてもらった。打って付けの人選だったと思う。
7日の開校式に「村野中学校2期生代表幹事」「校歌の作曲者」としておふたりは招待され、校歌の御披露目に立ち会ったのである。その映像をYou Tubeに限定公開したので見てもらいたいとURLを知らせてくれた。
その2番と3番の間奏にさりげなく村野中学校の校歌のメロディーの1節が組み込まれているとのこと。また可知校長先生の歌詞にも村野中学の校歌の1,2番の出だし『交野が原』と『天の川面』が組み込まれているので歌詞のデータも添付してくれた。
しかしである。我が携帯は時代遅れの簡単携帯、YouTubeも添付データにも対応が出来ず。昨日、代表幹事さんにパソコンのほうに再送信してもらい、ようやく動画と歌詞を見ることができた。
大阪府立むらの高等支援学校 校歌
村野中学校の校歌を作詞された初代の南清秀校長先生には公私にわたってお世話になった。大東市で長く勤められてきたが、最後の3年間を枚方市という教育風土の異なる、しかも新設校での学校づくりに邁進された。ベテランと若手の二極化の中苦労も多かったと思うがおおらかにかつ要所を締めて自由に教育実践をさせてもらった。また、職場で知り合った私たちの仲人を快く引き受けてもらった。偶然だが、教頭だった岸先生が仲人第1号で私が第12号。「これで最後やな」と大笑いされた。また、妻の実家から玄米が届くと、今のようにコイン精米機のない時代、田畑も持っていた先生のお宅には簡易精米機がありつかせてもらった。大量に精米できないので30kを付くには半日はかかった。その間、先生の居間でいろいろな話を聞くことができた。そのことが目に見えない力となった。
昭和52年に退職されてからも時折お宅にお伺いしていたが、3年後の冬、「ちょと風ひいたみたいや、寒気がする」と帰りがけに聞いた1週間後に急逝された。そのことが一番惜しまれる。村野中学校の校歌の詞には先生の教育者としての魂が込められている。その言葉が新設の支援高等学校の校歌に使われたことは望外の喜びである。
代表幹事さんのメールを読んだ時、男女の結びつき以上の『縁は異なものあじなもの』を思った。