素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

公立高校の入試に学テの結果はからませるべきではない

2015年04月25日 | 日記
 学テの理科の問題の中に、一部の中学校で未履修のものがあったということが報じられた。「やっぱり出てきたか」というのが正直な感想である。本来ならこの時点で学テを公立高校の入試資料として使うことは断念すべきだろう。

 この問題が出てから、ずっと考えているのだが、自分の受験生としてのさまざまな経験と教師という職業に就いて受験に関わってきた40年余りのことを振り返ると思考は堂々めぐりをしてしまう。要は、妙案はないのである。このことを大前提にしながら考える。

 まず、平均値至上主義はだめだろう。ということははっきりしている。6つのモデルで考えると

 ①100、80、60、40、20、 0→計300・平均50
 ②100、80、60、20、20、 0→計280・平均46.6
 ③100、80、40、40、 0、 0→計260・平均43.3
 ④ 80、60、60、40、40、20→計300・平均50
 ⑤ 60、60、60、40、40、40→計300・平均50
 ⑥ 60、60、60、60、60、60→計360・平均60

 ①④⑤は平均だけで見ると50と同じだが、分布をみればそれぞれに課題は違うだろう。極端に設定した⑥の平均は他の5つよりダントツだが、中身をみれば手放しでは喜んでいられない。

 平均点で学校間の格差を調整しようとすることには問題がある。①と③の100、80、40は個で見れば同じだがそこに平均という集団の尺度を加えると違いが生じる。これは個人競争である入試にはそぐわない。

 学テの結果を学校別の平均点だけで大騒ぎしていることにも違和感を覚えるのはこの理由による。集団を代表させる値には平均値以外に最頻値(モード)中央値(メディアン)もあるのだからもっと多角的に見る必要がある。分布状況も大切な要素である。

 平均値は極端な値の影響を受けやすいので上げる近道は、「白紙で出すぐらいなら欠席しなさい」とまったくやる気のない生徒に免罪符を与えることである。そうすれば②の平均は56、③にいたっては65と跳ね上がるのである。 これは甘い誘惑となる。

 相対評価は集団の質によって個人の力が正当に値として出てこないという点にある。だから絶対評価をという思いは理解できるが、何度も繰り返しているが絶対評価をするための統一した基準をつくることは至難の技である。過去70年間、入試に関しての試みはこれらの間を行ったり来たりの繰り返し。

 だから、思考は堂々めぐりになってしまう。府教委の委員は本当に悩んだのだろうか?そこに疑問が残る今回のドタバタ劇である。そのこともあって「公立高校の入試に学テの結果はからませるべきではない」とますます強く思うようになった。

 
 
コメント
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