万城目さんの小説を『プリンセス・トヨトミ』『鹿男あをによし』そして『鴨川ホルモー』の順に読んで来た。『プリンセス・トヨトミ』がオーケストラなら『鹿男あをによし』は楽団そして『鴨川ホルモー』は弾き語りかな。スケールの大きさはないが万城目ワールドの源流である。日本的なものを土壌にした奇抜な発想を巧みな構想力で読む者を引きずり込む力はすでにデビュー作の中にある。
読みながら、自分自身の高校、浪人、大学時代の甘酸っぱい記憶がよみがえってきた。“青春していた”という表現がぴったりの頃である。なつかしい言葉が本の中にちりばめられているのである。
たとえば“虚無”。「僕たちがこの大学生活の中で戦うべき、いちばんの相手とは何だろう?」と高村は安倍に問う、無駄な睡眠欲だろうかという安倍の答えを聞き流して「僕は・・・虚無だと思うんだ。僕たちがこの長い学生生活でこれから戦い続けなければならないものは、間違いなく虚無だ。いや、それは大学だけではなく、社会に出てからも、絶えず僕たちを苛むはずだ。」と高村は言った。
内からのエネルギーに突き動かされてさまざまなことに取り組みながら、一方で満たされない気持ちを持ち、こんなことをしていて何になるのだろうかという思いに支配された。その時、山本周五郎の“赤ひげ診療譚”の中の「徒労に賭ける」という言葉で救われた。
また、“知行合一”。これもなつかしい言葉である。教育実習の時の記録に「僕の一つの信条は知行合一ということである。すなわちいくら物事を知っていてもだめだ、実践してこそ本当に知っているといえるということである。高校時代ほど単純に知即行とは考えていないが、でも知行合一を願う気持ちには変わりない」と書いている。理想の自分と現実の自分のギャップに悩むのが思春期かなと思う。そこからの脱出の過程が大人になるということかもしれない。
葉隠の“忍ぶ恋”もなつかしかった。高校時代、体育館の陽だまりに集まるグループの中で三島由紀夫の『葉隠入門』が流行した。その中でも“恋の至極は忍ぶ恋にあり。忍んで忍ぶほど恋の丈は高くなる。”という部分は好まれた。告白できない言い訳みたいなものであったに過ぎないが、みんな熱病のように“忍ぶ恋”という言葉にとりつかれていた。
あの頃のことを語りだしたらきりがない。赤面することも多い。でも、それらがこやしになっていることは確かである。
源流までさかのぼったので、最新刊はいかに!?と楽しみが増えた。
読みながら、自分自身の高校、浪人、大学時代の甘酸っぱい記憶がよみがえってきた。“青春していた”という表現がぴったりの頃である。なつかしい言葉が本の中にちりばめられているのである。
たとえば“虚無”。「僕たちがこの大学生活の中で戦うべき、いちばんの相手とは何だろう?」と高村は安倍に問う、無駄な睡眠欲だろうかという安倍の答えを聞き流して「僕は・・・虚無だと思うんだ。僕たちがこの長い学生生活でこれから戦い続けなければならないものは、間違いなく虚無だ。いや、それは大学だけではなく、社会に出てからも、絶えず僕たちを苛むはずだ。」と高村は言った。
内からのエネルギーに突き動かされてさまざまなことに取り組みながら、一方で満たされない気持ちを持ち、こんなことをしていて何になるのだろうかという思いに支配された。その時、山本周五郎の“赤ひげ診療譚”の中の「徒労に賭ける」という言葉で救われた。
また、“知行合一”。これもなつかしい言葉である。教育実習の時の記録に「僕の一つの信条は知行合一ということである。すなわちいくら物事を知っていてもだめだ、実践してこそ本当に知っているといえるということである。高校時代ほど単純に知即行とは考えていないが、でも知行合一を願う気持ちには変わりない」と書いている。理想の自分と現実の自分のギャップに悩むのが思春期かなと思う。そこからの脱出の過程が大人になるということかもしれない。
葉隠の“忍ぶ恋”もなつかしかった。高校時代、体育館の陽だまりに集まるグループの中で三島由紀夫の『葉隠入門』が流行した。その中でも“恋の至極は忍ぶ恋にあり。忍んで忍ぶほど恋の丈は高くなる。”という部分は好まれた。告白できない言い訳みたいなものであったに過ぎないが、みんな熱病のように“忍ぶ恋”という言葉にとりつかれていた。
あの頃のことを語りだしたらきりがない。赤面することも多い。でも、それらがこやしになっていることは確かである。
源流までさかのぼったので、最新刊はいかに!?と楽しみが増えた。