体育の日も過ぎ去って、読書の秋となっています。昔読んだ文庫本など書棚から取り出して読み直すこともありますが、戦争を扱った書物を読むと、フィクションとは分かっていてもやはり胸が痛みます。ノンフィクションらしく書かれていても、作家がその場に居合わせた訳ではないから、厳密には私は言い回しを含めてフィクションだと思います。
活字になっていると、事実でなくても事実らしく見えるので、記述の背景や時代の背景を思い浮かべながら読みます。同じ本を何回も読むと、思い浮かべる背景が自分の年齢によって異なっていることに気付きます。「徳川家康」など典型です。歴史本のいいところは、委細はフィクションでも、大まかな時代背景が大河の流れのようにうねりながら今日に至っていることが想像できます。
歳を重ねると、卑近な例で、例えば中国の1989年6月4日の「天安門事件」(第二次)など、当時の出版物で、本当か嘘かわかりませんが、「残酷だなあ」 と思いながら読みます。そして、自分が鉄砲で撃たれたような気がして、目を撃たれた場面や腹を撃たれた場面をそれぞれ想像し、もがきながら死んでゆく「熱さ」を感じ、ゾッとしてしまうのです
若い頃は抽象的な理解しかしませんでしたが、高齢になると、同じ記述に対してもより具体的に理解が進み痛みを伴ってしまいます 明るい記述に対してはより具体的に心が明るくなります 偉人の「生き様」など教訓めいた書物は直筆か代筆かなど疑いながら読みます。偉人は、忙しいから書物の推敲などする時間はないと思います そして、こんな先入観が事実を歪めることもあると自戒しながら読みます 私のこのブログは・・・全て直筆です
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