とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 240 THE TIGERS....花の首飾り

2017-10-24 17:24:49 | 日記
やっと見つけました。トッポのボーカル映像。よかったです。今視ていてすごいグループだったと改めて実感しています。トッポの澄んだ高音。涙ものです。よかった。見つかって。

THE TIGERS....花の首飾り



ザ・タイガース(The Tigers)は、日本のグループ・サウンズ。
1967年2月に「僕のマリー」でデビュー。その後、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など、多くのヒット曲を放つ。1971年の日本武道館コンサートを最後に解散。その後1981年11月に「同窓会」と銘打って再結成した( - 1983年)。さらに30年を経た2013年12月にオリジナル・メンバーでの「ザ・タイガース」復活コンサートが複数回開催された(後述)。


メンバー

沢田研二(ジュリー)(1948年6月25日 - )、ボーカル、タンバリン
岸部修三(サリー)(1947年1月9日 - )、ベース、コーラス
加橋かつみ(トッポ)(1948年2月4日 - )、リードギター、コーラス、ボーカル
森本太郎(タロー)(1946年11月18日 - )、リズムギター、加橋かつみ脱退後はリードギター、コーラス
瞳みのる(ピー)(1946年9月22日 - )、ドラムス
岸部シロー(シロー)(1949年6月7日 - )、リズムギター、タンバリン、コーラス
1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。
1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。

「ザ・タイガース」としてテレビ出演

1966年11月9日、東海道新幹線で上京。3日後、ポリドール・レコード(当時は日本グラモフォン、現在はユニバーサルミュージックに併合)のオーディションに合格し、レコード会社が決まる。メンバーは世田谷区烏山町に用意された住宅に入居し、渡辺プロマネージャーの中井國二を加えた6人で合宿生活を始めた[16]。

11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた。沢田は「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べている。当時アメリカ、カナダ、イギリス、日本などで人気だったアイドルグループ、モンキーズの存在を意識して動物名となったとする説もある。すぎやま自身は1987年に、「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している。また、渡辺プロからの指示により、バンドのリーダーも瞳から岸部に変更された。

初のテレビ出演では、当時アメリカ本国において、モンキーズに次ぐアイドル人気となっていたパンク・ロックバンドであるポールリビアとレイダース(英語版)の「KICKS(英語版)」を演奏[15]。出演時間はわずか30秒で、渡辺プロではなく内田裕也からすぎやまに売り込んでのものだったという。内田は、上京後すぐにメンバーを麻布のイタリア料理店「キャンティ」に連れて行った。「キャンティ」は当時、文化・芸能人の集まるサロンのような場所で、メンバーはその後もしきりに出入りし、公私ともに影響を受けていくことになる[19]。

1967年シングルデビュー、人気爆発

1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。前年12月の録音の際、曲を渡されたメンバーはそれまでの演奏曲との違和や失望を感じたという。渡辺プロ側がタイガースのプロモーションに際してイメージしたのはモンキーズであったが、セールスは伸び悩む。

一方、ジャズ喫茶では、内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として前年12月から新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じテイストの楽曲を演奏した。1967年1月15日の第31回日劇ウェスタンカーニバルで、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏する。これを契機にジャズ喫茶でのファンが増加していく。

内田の命で新宿ACB出演の際に、メンバーのニックネームと芸名が決められた。岸部は(リトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」)、瞳は(キューピーに由来する「ピー」)、森本は(本名に由来する「タロー」)とされた。3人とも従来からメンバー間で使われていた愛称だった(岸部と瞳は京都時代に自然につけられた)。一方、沢田は、女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」と自ら名付け、加橋は、トッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と名付けられた。また、芸名については、岸部は本名の読みを変え(「しゅうぞう」から「おさみ」)、瞳と森本は逆に表記を変えた(森本は名前のみ)。沢田は内田による芸名(沢の井謙)を拒否し本名の澤田を沢田と表記し、加橋は内田に本名(「高橋」)の一文字を抜く形となった。

3月頃から人気が爆発、5月発売のセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒットとなった。「シャボン玉ホリデー」などのテレビ出演でそれが加速し、従来よりも低年齢(中高生)にファン層が広がった。
テレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていたが、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱われ、内田はプロデュースに近い立場となった[27]。後に、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した。結果として、渡辺プロは自らの路線に合わない内田をザ・タイガースから切り離した形となった。

1967年後半には活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変わり、テレビなどの芸能活動も増加していった。烏山の合宿所には女性の追っかけが数多く訪れ、メンバーの日常生活にも支障を来すほどになっていた。

1968年には、1月発売の4枚目シングル「君だけに愛を」のヒットに続き、3月発売の5枚目シングル「銀河のロマンス/花の首飾り」(「花の首飾り」は加橋の初のメインボーカル曲)がオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得、公称130万枚・オリコン調べで67.6万枚を売り上げた。3月10日に「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で開催する。武道館コンサートをする初の日本人音楽バンドとなる。ザ・タイガース初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』は4月に公開された。

7月発売の6枚目シングル「シー・シー・シー」も6週1位となり、オリコン調べで50.8万枚を売り上げた。8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発売している。

こうして、ザ・タイガースは、渡辺プロによるアイドル的な売り出しによって多様な人気を集め、グループサウンズの頂点を極めることになる。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 239 有楽町で逢いましょう フランク永井 昭和33年 ビクター

2017-10-23 18:07:08 | 日記
どこかで愛しい人を待っている。当時私は恋に恋していたのでしょう。この唄の雰囲気にあう物語を作って、その主人公になっていました。

有楽町で逢いましょう フランク永井 昭和33年 ビクター


フランク 永井(フランク ながい、1932年3月18日 - 2008年10月27日)は日本のムード歌謡歌手である。本名は、永井 清人(ながい きよと)。独特の低音が特徴であった。

歌手デビュー

幼少時に父を亡くしたが、母が映画館経営をしていたため、不自由なく育つ。幼少時から歌手に強い憧れがあり、昭和26年ごろに東京へ出て就職していた兄を頼り上京。進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手、アルバイト生活を経て、アメリカ軍のクラブ歌手として月100ドルで契約する。さまざまな「のど自慢大会」に出場し、「のど自慢荒らし」の異名をとったが、1955年(昭和30年)に日本テレビの『素人のど自慢』の年間ベストワンに選ばれたのを機に、ビクターと契約。同年9月に『恋人よ我に帰れ』でデビューした。

ジャズを得意としたがヒットに恵まれず、先輩歌手であるディック・ミネの勧めや、作曲家・吉田正との出会いを期に歌謡曲に転向した。1957年(昭和32年)の有楽町そごう(2000年に閉店)キャンペーンソングであった『有楽町で逢いましょう』が空前のヒットとなり、さらに既に発表していた『東京午前三時』『夜霧の第二国道』も相乗ヒットとなり、一躍トップスターとなる。自ら見出した松尾和子と共に歌った1959年(昭和34年)の『東京ナイト・クラブ』は、デュエットソングの定番として2000年代においても歌い継がれている。

日本レコード大賞受賞・紅白歌合戦26回連続出場

1961年(昭和36年)には1922年(大正11年)の二村定一の流行歌「君恋し」をジャズ風にアレンジしたリバイバルが大ヒット。同年の第3回日本レコード大賞を受賞、人気を不動のものとする。吉田とのコンビでも「霧子のタンゴ」、「妻を恋うる唄」などのヒットに恵まれたが、なかでも1966年(昭和41年)に「大阪ろまん」のB面収録曲として発表された「おまえに」は、6年後の1972年(昭和47年)にはA面として再発売され、さらに5年後の1977年(昭和52年)には、新規に再録音された。2000年代において一般的に聴かれている「おまえに」は後者の録音であることが多い。

また、「君恋し」をロカビリー風およびゴーゴー風のアレンジで再録音したり、1973年(昭和48年)にはイタリアへ飛び、トランペッターのニニ・ロッソと共演、レコーディングを行った。ニニ・ロッソとは前年の「第23回NHK紅白歌合戦」で「君恋し」を歌唱した際に初共演している。

コンサートにおいては、趣向を凝らし、緻密に練り上げられた構成のステージングで知られ、約5年毎に大きなリサイタルを開いたが、そのうちのいくつかは芸術祭で賞を受けたほどの語り草になっている。永井は進駐軍のクラブ歌手をしていた経験から英語に堪能であり、ステージでスタンダード・ナンバーや、「霧子のタンゴ」の英語版なども歌うことがあった。

海外公演もこなし、台湾(ここでの公演で「霧子のタンゴ」英語版を初披露したという)や韓国などでコンサートを行っている。特に1968年の韓国公演は、戦後初めての朝鮮半島における日本の流行歌手の来日公演、と半島で話題を取った。ただし当時は日本語楽曲の披露は反日感情から規制されており、当初洋楽限定でのステージングであったが、観客からの強い要望で「有楽町で逢いましょう」ほか4曲を日本語で披露し、喝采を浴びた(当局は黙認という形を取った)。

NHKで一席を披露したこともあるほどの落語好きとしても知られ、ステージのMCは落語の間を参考にし、日常で話のネタになることは常にメモを取り、それを練り上げ小噺に仕立てて披露した。自宅の電話の保留音はファンだった8代目三笑亭可楽の出囃子にしていた。可楽は高座でも「フランク永井って人があたしを贔屓にしてくれるんですよ」と話しており、十八番の「らくだ」の屑屋の科白に「くず〜うぃ。……低音の魅力だね。こりゃあ」というくすぐりを入れていた。また牧伸二も漫談で「フランク永井は低音の魅力、牧伸二は低能の魅力」というネタを披露した。他に8代目桂文楽とも交流があり、10代目柳家小三治とはゴルフ友達の間柄であった。現在も時折、小三治の口座では噺のマクラでフランクとの交流が語られる。

日本レコード大賞では大賞を1回、歌唱賞を2回、特別賞を3回受賞している。NHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1957年(昭和32年)の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。昭和50年代以後も「おまえに」、「公園の手品師」、"WOMAN"(山下達郎作詞・作曲)などヒット作や話題作を送り出し、1980年代に入ってからも自身の歌の原点であるジャズ・スタンダードを精力的に唄い始めるなど、歌謡界には比較的珍しい非・演歌系の大御所歌手として存在感を示していた。しかし1983年(昭和58年)の「第34回NHK紅白歌合戦」は落選となり、このことは当時の永井にとって大きなショックだったとも言われる。その後は後述の自殺未遂事件の影響で、紅白歌合戦へのカムバック出演を果たすことはできなかった。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 238 僕は泣いちっち(守屋浩)

2017-10-22 07:22:03 | 日記
東京へ、東京へ、草木もなびく。そういう時代を象徴する唄でとても懐かしいです。「泣いちっち」という響きが当時の私の心に染み込みました。忘れられない唄の一つですね。


僕は泣いちっち(守屋浩)



守屋 浩(もりや ひろし、本名:守屋 邦彦(もりや くにひこ)、1938年9月20日 - )は、千葉県出身の歌手、俳優である。安田学園中学校・高等学校卒業。
所属事務所は1960年より堀プロダクション(現在のホリプロ)、所属レコード会社は日本コロムビア→日本クラウンであった。ホリプロ所属タレントでヒットした第1号である。現在もなおホリプロ所属である。
女優、歌手の本間千代子が元夫人。


1957年、スイングウェストのバンドボーイとして芸能界入りし、1958年に日劇ウエスタンカーニバルでデビューする。ほぼ同時に堀プロダクションを設立した堀威夫の提案により芸名を「守屋浩」とする。これは既に第一線で活躍していた井上ひろし、水原弘に合わせたものと言われている。3人合わせて「三人ひろし」と言われた時期もある(かまやつひろしを入れて「四人ひろし」となる場合もある)。
守屋は当時のロカビリーブームで大躍進し、茶の間にも知られるようになった。

1960年の堀プロダクション設立後は同事務所に移籍(それ以前の所属事務所は不明)。この頃に歌謡曲に転向し、「夜空の笛」や「僕は泣いちっち」が大ヒットする。その後も「大学かぞえうた」や「有難や節」などをヒットさせる。
また映画でも活躍していた。その数は約20作ある。

1976年3月からはホリプロダクション(堀プロダクションを改名)の社員に転じ、同社の宣伝部長などを歴任、2011年現在ではホリプロのスカウト部長を兼務して新人の発掘などの業務を行い、また次代を担う若い歌手及び社員などの教育・指導にも当たっている。なお、守屋はホリプロ(1990年再改名)創立当時より現在に至るまで在籍している唯一のタレントでもある(守屋の次に在籍年数が長いのは和田アキ子である)。

そのため歌手・タレントしての活動は一時はほとんど行っていなかったが1990年代以降は本格的に活動を再開させ、懐メロ番組や歌のステージなどにも積極的に出演するようになった。
近年、脳梗塞に倒れたがリハビリの末に復帰した。病気の後遺症もあり、2008年以降はステージに置かれた椅子に座っての歌唱となっている。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 237 昭和宰相列伝4 吉田茂他(1945-1954)

2017-10-20 23:55:14 | 日記
戦後の首相の中で吉田茂は注目すべき人物です。こういう政治家は以後出てきただろうか。田中角栄がやや近い人物だと私は思っています。こういう大政治家の登場を切望しています。


昭和宰相列伝4 吉田茂他(1945-1954)



吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。


東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。

政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。
なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。また、戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。

終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。大蔵大臣に石橋湛山を任じて傾斜生産や復興金融金庫によって戦後経済復興を推し進めた。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。
自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。この間、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併し民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任した。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 236 野路由紀子 「北上夜曲」

2017-10-20 00:16:46 | 日記
えっ、この唄マヒナじゃなかったかしら。何とこの歳になって初めてこの歌手を知りました。透明感のある一味違う唄声ですね。聞きほれました。

野路由紀子 「北上夜曲」


野路 由紀子(のじ ゆきこ、1952年(昭和27年)10月20日 - )は、日本の歌手。福井県出身。

魚屋の4人姉弟の長女として、小さな頃から同じ境遇の美空ひばりに憧れて歌手を志す。高校を中退し、歌手を目指して上京し、聖川湧に出会いレッスンを受ける。

1971年(昭和46年)、デビュー曲の『私が生まれて育ったところ』がいきなりヒットした。この年は同じ福井県出身の五木ひろしをはじめ、小柳ルミ子、天地真理、南沙織、野口五郎などがデビューした新人豊作の年であった。この曲は“ディスカバージャパン”と言われていた当時の日本が見直されたことを反映したヒット曲であった。

続いて、1972年(昭和47年)にはTBSドラマ主題歌となった『北信濃絶唱』、1973年には『嫁入り舟』と毎年コンスタントにヒットを飛ばした。その後は長く売れない時期が続いたが、1988年(昭和63年)に発売した『しのび宿』が久々のヒットとなる。



1995年から10年程自由が丘でスナックを開いたこともあったが、歌手業専念のため、2005年に閉店。結婚歴はあり、一人娘がいる。
2006年から歌手活動を本格的に再開し、新曲『ラストメール』も発売。2013年12月31日、「第46回年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)に出演。

2006年に復帰パーティを行った都内ホテルの会場にはかつて所属していたバーニングプロダクションの社長周防郁雄や部長の河西成夫も姿を見せた。
バーニングプロダクションの女性第1号歌手でもある。(Wikiより)