とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 72 '09 - '60年安保闘争 - 1960

2017-01-08 16:45:08 | 日記
09 - 60年安保闘争 - 1960


Aの昭和の記憶の中でも三本の指の中に入る強烈な印象を残した出来事でした。戦後はこれから始まるとも思いました。


安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争、傷害、放火、器物損壊などを伴う大規模暴動である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動(あんぽそうどう)」とも呼ばれる。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り内閣総辞職をせざるを得なくなった。しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った


 1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカのサンフランシスコにおいて、アメリカやイギリスをはじめとする第二次世界大戦の連合国47ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂首相は、同時に平和条約に潜り込まされていた特約(第6条a項但し書き。二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)に基づく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は「在日米軍」となり継続して日本に駐留する事が可能となった。
なお、当時冷戦下でアメリカやイギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、西側諸国主導のサンフランシスコ平和条約に対立の意思を示し、49カ国の条約締結国には入らなかった上に、自国を事実上の仮想敵国(ソ連脅威論)とした日米安全保障条約に対しても激しく非難を行った。(Wikiより)

Aもデモに参加したことがあります。
最初、授業料値上げ反対の届け出デモを学内の執行部が提案して参加者を募りました。私もある友人と参加しました。届け出デモなので警官が交通整理をしてくれました。
最初は「授業料値上げ反対 !!」と執行部がマイクが叫んでいました。しかし小倉の繁華街にさしかかるといつの間にか「安保反対 !!」というシュプレヒコールに変りました。おやっ、と思いはしましたがつられて全員がそう叫び始めました。怖いものでAはいつの間にか快感を感じるようになったのです。小倉の北九州市の仮庁舎に到着するとデモ隊は建物の周囲を走り回りました。それがまたすごく快感だったのです。警官は遠巻きになっていつでも取り押さえられる態勢をとっていました。
就職試験で宮崎に行ったときも夜宿舎の窓から外を覗いていると、大勢のデモ隊が姿勢を低くして角材のようなものを持ってじわじわ進んでいました。彼らは年季が入っていると思いました。・・・実に全国が騒然としていました。