Nonsection Radical

撮影と本の空間

マイスイートホーム

2009年09月20日 | Weblog
某月某日
口絵は我が家である。
もちろんウソに決まってますぅ。
東京・多摩センターにある「東京都埋蔵文化財センター」にある縄文時代の復元家屋だ。
少し前に多摩センターに埋没被写体発掘作業に出かけた時に見つけた。
もちろん中にも入ってみた。
ほとんど真っ暗である。
近くいた作業員のオジさんに(satoboもオジさんだが)、いろいろ話を聞いたのは以前日記に書いたような気がするが、このような家屋はあくまでも想像であるという。
発掘されたのはあくまでも柱穴だけだからね。
古い家屋を参考に柱穴の情報から想像して「復元」したらしいのだが、中にはいると思ったよりも茅葺きの「厚さ」に驚いた。
そこで質問したのだが、オジさんの個人的意見としてはもっと簡素であったかもしれないと言い、satoboもその意見に同意したのだった。
30年ぐらい前に復元されたらしいのだが、その後一度もふき替えられていないが十分シッカリしておりライフは長そうだ。
なぜこの地に復元されたかというと、ここは小高い丘の上にあるのだが、昔東電がここに高圧鉄塔を建てようと工事していたら遺跡が見つかったからだという。
そのため鉄塔の位置をずらす事になって、かなり大掛かりな変更を伴ったらしい。
というのは、鉄塔は電線の力学的均衡を考えて位置が決められているそうで、鉄塔をずらすと他の鉄塔の位置も考え直して設計をし直さねばならないらしい。
そうして保存された遺跡が残っているのだが、もちろん柱穴だけである。
現在はその上をFRPで囲って子供の遊び場みたいなカタチで保存してある。
この地に集落があったという事は・・・と、オジさんに川の存在や地形的な事を質問したりしたのはにわかマニアのなせるワザである。
センター建物の中には東京都で発掘された土器や埋蔵品を展示してあり、素人でもかなり楽しめる内容なのだ。
入場料が無料というのは「文化」のなせるワザである。
残念ながら現在話題になっている国の埋蔵金はここでは見つかっていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スゴいはウマいよりスゴい

2009年09月19日 | Weblog
某月某日
本日より実質開催しました「東京8x10組合連合会写真展」ですが、午前中から搬入し展示準備、夕方から希望者を集めての撮影者による写真説明、懇親会と続きました。
思ったよりも作風がばらけていて、個性が表れた楽しめる写真展となりました。
何人もの人が取り澄まして同じような写真を同じように展示するのって、見ている方にはツマラナイじゃないですか。
撮影者には撮影者の考えがあるのですが、鑑賞者にも考えがあります。
satoboは基本的に見る方の立場で楽しみたいので、今日もそのように見ていました。

satoboが求めるのは「スゲー!」と思わせる写真です。
この「スゲー!」という気持ちは、「ウマい」と思わせる気持ちよりもスゴいと思うのです。
たとえばピカソが次々に新たな事に作風を変えていくたびに、見る方は「スゲー!」と思うわけです。
そして歴史が変わっていくのです。
またそれに対抗して別の人が別の事で「スゲー!」と思う事を創り出していく。
その刺激がたまらないのですね、見ている方は。

「スゲー!」というのは、単なるスゲーだけではないのです。
スゲー地味だとか、スゲーかわいいとか、スゲー難しいとか、スゲーエロチックだとか、スゲーバカバカしいとか、とにかく飛び抜けた部分が刺激を与える事が重要なんですね。
それに対抗するのに「ウマい」というだけでは弱いと思うんです。
スゲーウマいじゃないとね。

今はまだその「スゲー!」が現れていなくても、その芽を探す事も楽しい作業です。
この部分はきっと将来スゲー!事になるぞ、などと密かに注目して見続ける事が出来れば、結構長い間楽しめるのです。
定期的に展覧会などしてくれれば、「成長度合い」がわかり、ましてやその相手がジョシだったりしたら、「プリンセスメーカー」気分ですね。

もし展覧会、演奏会など発表会がありましたら、そのようにみてはいかがでしょう。
そして作者に思った気持ちを伝える事もイイ事です。
たとえそれが相手にとって悪い感想であっても、決して無駄にはならないと思います。
10の褒め言葉より1の辛辣な意見の方が重要だと思うのです。
特に注目したい人に対しては・・・

26日まで開催していますから、麻布十番に遊びがてら寄ってみてください。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流水が好き

2009年09月18日 | Weblog
某月某日
ニャンコはなぜか流れる水が好きなようだ。
もちろん汲み置きの水入れも置いてあるのだが、ほとんどそこからは飲まずに、誰もいない時には風呂場の水道蛇口に口をつけわずかに溜まった水をペチャペチャ舐めている。
それはまだマシ。
誰かがトイレの便器フタを閉め忘れた場合、便器の溜まり水を・・・
satoboがいる時にはあとをついて回り、トイレに入れば給水タンクにためる水を顔を横向けて飲むし、お風呂に入る時には流し場までついて来て、水道のところで待つ。
satoboが蛇口を開けて、細く水を流してやるとやはり顔を横に向けて器用に流れる水をペチャペチャ飲む。
飲み終わるまでsatoboは裸のまま突っ立っているだけだ。
十分飲むと風呂場からサッと立ち去る。
どこでこんな事を覚えたのか不思議である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ごめんよぉ、オジさんは我慢できなかったんだょ

2009年09月17日 | Weblog
某月某日
直木賞作家北村薫の三部作で、文庫本化されていた「街の灯」「瑠璃の天」を購読したときに、受賞作の「鷺と雪」は文庫本化されたら買うと言っていたのだが・・・
我慢できずに買ってしまった・・・単行本1470円。
どうしても話の筋を切れ目なく知りたかったんだよぅ。
で、読んだ感想ですが、これらの話は不定期的に雑誌「オール讀物」に連載されていたのですが、雑誌掲載時には「挿絵(さしえ)」がついていたのですね。
挿絵によるイメージへの影響は大きく、挿絵を描いた謡口早苗(うたぐちさなえ)さん描くところの登場人物「ベッキーさん」がsatoboにとってのベッキーさんとなってしまい、satoboはベッキーさんに「ほの字(死語)」となってしまったのです。
そのベッキーさんが単行本には描かれていないのが残念だったのでした。

現在は林真理子著「本朝金瓶梅」(楽しいエロ小説)を寝床で読んでいるのですが、もちろん登場人物の「好色悪女達」に著者林真理子女史をダブらせたりはしておりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石の時代から

2009年09月16日 | Weblog
某月某日
今朝の日本経済新聞「春秋」に漱石の書いた文章が話題になっていた。
我が意を得たりである。
今度の週末から開催される東京8x10組合連合会写真展であるが、そもそもこの長ったらしい名称の団体を結成したのは、畏れ多くも漱石先生と同様の気持ちを持った事をコンセプトにしたのである。

アートというのは否定の連続で成り立ってきた。
先人の創り出したものを否定し、新たな価値観を創り出す。
そしてまたそれが否定される。
そのようにして芸術は進んできたのだ。
しかし一方で、自らの価値観を抱えたまま踏みとどまろうとする人たちもいた。
その結果、混在一体となり、またそれが面白いものでもあるのだ。
60年代以降、アートは破壊の世界を抜け、ある種の合意の元になんでもありの調和を迎えた。
写真の世界を見ても、60年代に若者が既成の表現を蹴散らし、アートが美であるとは一概にいえない時代がきた。
しかしそれは個人での事。
それが団体になると守旧派が力を持ち、「~は、~でなければならない」という観念が支配していた。
実際には、そんなものは何のパワーも持たない時代なのに。

8x10カメラの世界においても、ああしなくては、こうしなくては、あげくにこういうものを撮影すべし、と型枠だらけのお決まり事がまかり通っていた。
本当にそうなのか?
では、あの時代(60~70年代)の騒ぎは何?
写真はサヨウナラしたのではないのか?
と、数々の疑問がわいてきた。
これが素人の浅はかさ、浅ましさ、強さである。
黒人はそのようにがんじがらめに縛られ、自由な発想も許されず、型にはまった活動を強いられている、と思ったのだ。
黒人、中でもそれを商売にする人は、アート市場という中の需要と供給の世界で生きていかねばならない。
だからその決まり事を守り、流通を潤滑にする努力が必要となる。
まあそれをわかりやすいカタチで語ったのが村上隆の著書である。
写真を生業とする、あるいは生業としようとする人は村上隆を読みましたか?
写真がアートの一つであると言うのなら、他の絵画や映像、音楽、演劇などすでにアート市場が成り立っている世界にいつも触れているのが必然だ。
写真だけがアートじゃない。
他の流通形態を知らずに現代を語るのは無理、無駄、無知だ。
アートで喰っていくとは、突き詰めれば村上隆が言うように成功して金持ちになるという事なのだ。

幸いな事に素人はアートで飯を食う必要がない。
だから自由に何でも出来るのだ。
コストも関係ない。
名誉も必要ない。
したい事が出来る。
これを趣味だと一笑に付すのは自由だ。
でも趣味以上にだって自由にしていいのが素人なのだ。
だったら自由な気持ちで8x10カメラで撮影しようじゃないか。
でも他にもこんな気持ちの人がいるかな?
そうじゃない人は既存の団体で既存の事を守っていけばイイのだし、そこからはみ出た人を集めるのもおもしろじゃないか?
と思い立って東京8x10組合連合会への結集を呼びかけたのだ。
その呼びかけはsatoboにとって共産党宣言である。
その宣言に理解、同意する人が集まるのだ。
当然それまでは独立独歩で好きな事をしてきた連中だ。
変にまとめる必要もない。
まとまる必要もない。
当然まとまる事もない。
好きに活動してこそ真価が発する。
それが「オトナ」の集まりという事だ。
satoboの共産党宣言は、口先だけの景気づけに発したわけではない。
だから共産党宣言を口にしながら、ブルジョア階級の真似をするのは矛盾する。
あくまでも素人は素人らしく、黒人のカタチを真似たりせず、追従せず、新たな価値観で「遊ぶ」事が楽しいのだ。
そんなに簡単に新たな価値観など生まれるわけがない。
しかし素人には十分な時間がある。
じっくり考えて、試行錯誤し、創り出していけばイイのだ。
それも楽しく苦しみながら。

漱石の文章を日経の引用からさらに引用するのは陰陽師みたいだが、ついでにネットで拾った漱石の文章を紹介して総理就任の挨拶に代えさせていただきます(笑)。

「昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、 其人は黒人ではなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潜るのではなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである」
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする