Nonsection Radical

撮影と本の空間

漱石の時代から

2009年09月16日 | Weblog
某月某日
今朝の日本経済新聞「春秋」に漱石の書いた文章が話題になっていた。
我が意を得たりである。
今度の週末から開催される東京8x10組合連合会写真展であるが、そもそもこの長ったらしい名称の団体を結成したのは、畏れ多くも漱石先生と同様の気持ちを持った事をコンセプトにしたのである。

アートというのは否定の連続で成り立ってきた。
先人の創り出したものを否定し、新たな価値観を創り出す。
そしてまたそれが否定される。
そのようにして芸術は進んできたのだ。
しかし一方で、自らの価値観を抱えたまま踏みとどまろうとする人たちもいた。
その結果、混在一体となり、またそれが面白いものでもあるのだ。
60年代以降、アートは破壊の世界を抜け、ある種の合意の元になんでもありの調和を迎えた。
写真の世界を見ても、60年代に若者が既成の表現を蹴散らし、アートが美であるとは一概にいえない時代がきた。
しかしそれは個人での事。
それが団体になると守旧派が力を持ち、「~は、~でなければならない」という観念が支配していた。
実際には、そんなものは何のパワーも持たない時代なのに。

8x10カメラの世界においても、ああしなくては、こうしなくては、あげくにこういうものを撮影すべし、と型枠だらけのお決まり事がまかり通っていた。
本当にそうなのか?
では、あの時代(60~70年代)の騒ぎは何?
写真はサヨウナラしたのではないのか?
と、数々の疑問がわいてきた。
これが素人の浅はかさ、浅ましさ、強さである。
黒人はそのようにがんじがらめに縛られ、自由な発想も許されず、型にはまった活動を強いられている、と思ったのだ。
黒人、中でもそれを商売にする人は、アート市場という中の需要と供給の世界で生きていかねばならない。
だからその決まり事を守り、流通を潤滑にする努力が必要となる。
まあそれをわかりやすいカタチで語ったのが村上隆の著書である。
写真を生業とする、あるいは生業としようとする人は村上隆を読みましたか?
写真がアートの一つであると言うのなら、他の絵画や映像、音楽、演劇などすでにアート市場が成り立っている世界にいつも触れているのが必然だ。
写真だけがアートじゃない。
他の流通形態を知らずに現代を語るのは無理、無駄、無知だ。
アートで喰っていくとは、突き詰めれば村上隆が言うように成功して金持ちになるという事なのだ。

幸いな事に素人はアートで飯を食う必要がない。
だから自由に何でも出来るのだ。
コストも関係ない。
名誉も必要ない。
したい事が出来る。
これを趣味だと一笑に付すのは自由だ。
でも趣味以上にだって自由にしていいのが素人なのだ。
だったら自由な気持ちで8x10カメラで撮影しようじゃないか。
でも他にもこんな気持ちの人がいるかな?
そうじゃない人は既存の団体で既存の事を守っていけばイイのだし、そこからはみ出た人を集めるのもおもしろじゃないか?
と思い立って東京8x10組合連合会への結集を呼びかけたのだ。
その呼びかけはsatoboにとって共産党宣言である。
その宣言に理解、同意する人が集まるのだ。
当然それまでは独立独歩で好きな事をしてきた連中だ。
変にまとめる必要もない。
まとまる必要もない。
当然まとまる事もない。
好きに活動してこそ真価が発する。
それが「オトナ」の集まりという事だ。
satoboの共産党宣言は、口先だけの景気づけに発したわけではない。
だから共産党宣言を口にしながら、ブルジョア階級の真似をするのは矛盾する。
あくまでも素人は素人らしく、黒人のカタチを真似たりせず、追従せず、新たな価値観で「遊ぶ」事が楽しいのだ。
そんなに簡単に新たな価値観など生まれるわけがない。
しかし素人には十分な時間がある。
じっくり考えて、試行錯誤し、創り出していけばイイのだ。
それも楽しく苦しみながら。

漱石の文章を日経の引用からさらに引用するのは陰陽師みたいだが、ついでにネットで拾った漱石の文章を紹介して総理就任の挨拶に代えさせていただきます(笑)。

「昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、 其人は黒人ではなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潜るのではなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである」
コメント (7)
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