Nonsection Radical

撮影と本の空間

体罰とストーカー行為

2013年01月17日 | Weblog
体罰が問題になると、必ず”愛情”で体罰を行なう事もあるのだから、一概にすべてが悪いとはいえないのではないか、という話が出てくる。
これって、ストーカー行為と同じようなものだなと、ふと思った。
体罰がイヤで、傷つき、トラウマになって、という人もいれば、体罰を受けた事で”愛情”を感じ、心を新たにした、という人もいる。
強引な求愛行為がイヤで、傷つき、トラウマになって、という人もいれば、強引さに負けたが、今では幸せだという人もいる。
現在のところ、強引な求愛行為は、ストーカー行為という事に分類される事が多いのは、それは”受け手”がイヤな気持ちを抱く事が多いから、イヤな事はされたくないという気持ちを尊重する世の中になっているからで、したがって強引な求愛行為は慎むべき行ないであると認知されてきたと言えよう。
強引な求愛をイヤだと思う人が多数であるのだろう。
一方で、体罰に関しては、こうした共通認識がハッキリとは固まっていないようなので、一概にすべてが・・・という声も聞こえてくるのだろう。
しかし、元プロ野球選手の桑田氏のように、ハッキリと体罰に愛情など感じた事がないと言い切る人も出てきた。
体罰をイヤだと思う人も多数いるのだろう。

この話で、共通するものとして”愛情”を持ち出したわけだが、肯定派には”愛情”を押しつけても”時には”許されるという思いがあるのだろうし、否定派には押しつけられるのは真っ平だとの思いがあるのだろう。
でも、どちらも相手が”愛情”を受け入れるかどうかが”問題”なのだ。
受け入れてもらう、あるいは受け入れさせる、には、押しつけるだけではなく、別の方法もあるのではないか?
それこそ時と場合によって、方法は変わるものだし、変えるものだろう。
それを自分の方法論だけで突き進むのは、目的が「受け入れてもらう(あるいは受け入れさせる)」のであれば、効果的な方法であるとは言えないのではないか。
だいたい、その行為が、”愛情”から来るものなのか、”自己愛”など利己的なものから来るのかは、行為からだけではわからないではないか。
そういう点で、”愛情”の一方通行になりかねない行為はやらないで、もっと”効果的”な方法を考える方が賢明だと思うのだけどね。





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コメント
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