3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

日本はなぜ右傾化したのかー80年代以降の公教育の結果である

2012-12-24 14:15:24 | 現代社会論
若者が右傾化しているといわれている。
なぜか。

筆者の見解であるが、1982(昭和57)年11月に中曽根が総理大臣になって以来、その流れは作られてきたと思えるのである。
1984(昭和59)年のお正月、中曽根は現役首相としてはじめて、靖国を参拝している。
1985年9月に文部省(当時)は、君が代日の丸教育の実施率を公表する。が、卒業式の君が代斉唱率は、小学校72.8%、中学校68%、高校53.3%と必ずしも高くなく、卒業式の君が代斉唱実施徹底を通知する。
1986年10月、教育課程審議会は「中間まとめ」のなかで、伝統文化・道徳の重視を掲げる。
1987年12月、教育課程審議会では、国旗掲揚、国歌斉唱の儀式での義務化を答申。

つまり、30歳以下の若者たちは、生まれた時から首相は靖国を参拝し、日の丸君が代を学校で歌い、知らず知らずのうちにそれが普通であると刷り込まれた世代だといえるのである。年代の幅を考えると40歳以下ぐらいは、この国旗掲揚国歌斉唱の文化が染み付いている。公立の小中高と学ぶ普通の子どもたちは、それが当然となっているのであり、生活文化に靖国、日の丸、君が代をベースにしたナショナリズムが染み付いていて、そういった歴史観によって育てられているともいえる。

一部の上質な私立小学校やリベラルな学者肌の教員が教える中高一貫校では、そうではないかもしれない。が、多くのその他大勢の学校では日の丸の小旗を振るのもそう奇異なことではなくなっている。卒業式に君が代を歌うことは普通のことであり、なぜ反対するKYな教員がいるのかもその意味さえわからなくなっている。(オリンピックやワールドカップでは日の丸が掲げられ君が代がたからかにうたわれるのだから仕方ないか。)

こういった伝統文化や道徳を大切にするという形をとりつつ、自由主義的な規制緩和経済政策のなかで、きわめて右寄りのそして自己責任にもとづく経済活動を展開してきたのがこの30年の我が国の路線である。

その間に小選挙区制となり、ますます、多様な意見は吸い上げられないような選挙制度となり、政治的虚無感はますます増大してきたといえよう。
当然の結果として男も女も若いものを中心として右傾化している。80年代の公教育の帰結なのである。

ちょっと詳しい年表を繰ってみればすぐに分かることである。

それにしても左翼の不甲斐なさよ。
右翼左翼と分けるのは嫌いだが、左翼が経済成長にあぐらをかき、緊張感など微塵も感じさせられないような労働運動、甘い汁をすってきた。そのつけが今日の不甲斐なさにつながっているとも思える。

韓国の政治家も若者も北朝鮮との緊迫した政治情勢のなかでいやおうにも鍛えられた。ヨーロッパだって東西ドイツの壁がつい最近まであったのだから、緊張感があった。そういうなかで英知を寄せ合って話し合う政治のあり方や市民運動の戦い方も磨きがかかったのだ。

我が国の左翼は、そういう鍛えられ方を幸か不幸か学ぶ必要がなかった。抑止する勢力が弱体化し、若者は右傾化した。いやいやそうはいっても戦争はダメだといい諭す人々、戦争体験者は高齢化し虚弱化し社会の周縁に追いやられてしまっているのだ。

若者にバランス感覚が失われている日本、だから絶望的なのである。
景気の悪さがますます若者を不満に陥らせ、バランスをさらに悪くさせている。
この悪循環を断ち切れるのか。














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高齢期の住まい方・暮らし方ー有料老人ホームなんて考えるな

2012-12-24 09:59:11 | 現代社会論
高齢期の生活の基本は年金と介護と食、住宅である。
この4本がとりあえず確保されていればなんとかやれる。
しかし、それぞれがそれなりの水準であることが約束である。

年金は厚生年金と国民年金があるが、厚生年金ならまあなんとかやれるだろう。しかし、国民年金のみなら、貯金がざくざくあれば別だが、極端に貧しくなる可能性がある。これはかなりの問題である。年金が少額で、老後、一挙に生活保護では先進国らしからぬ。

次に介護であるが、心臓病や脳血管性の疾病、がんなどになって入退院を繰り返すようになってもとりあえず、介護保険や関連サービスを頭脳的に利用することで、基本は在宅で過ごすことが可能であるはずである。
ただ、認知症になると在宅は大変となる。家族も大変である。家庭的な施設に入所して、時折、自宅に「帰宅」する、というような生活が望ましいかもしれない。そういうことができる介護体制の構築が急がれる。

介護に付随するがやはり食の確保である。
毎日365日、配食サービスがある。これを利用し、減塩などに配慮した食生活を確保することが必要であり、それができれば、買い物や調理ができなくてもOKで安心である。

最後に住宅である。持ち家、賃貸、とりあえず住まうところは生活の柱であるので確保されていなければならない。住み慣れてお気に入りの調度品にかこまれた生活環境、馴染みの近隣住民や出入りの業者など、居を移さずに高齢期以前も以後も大きな変化なく、過ごすことが可能な生活環境と住居が確保されるということが重要である。風呂はデイサービスに依存する。自宅の風呂場は使いにくいので簡易なシャワー室程度の機能が確保されていればよいだろう。

新聞などを読んでいると、ファイナンシャルプランナーというような人は有料老人ホームをすすめるようだが、有料老人ホームは筆者は絶対に薦めない。
資産をざくざく持っていてドブに捨ててもよいくらいの人は別だが、ちょっと上等なビジネスパーソンでも有料は薦めない。こんなに当たり外れがある高額な買い物、しかも高齢期に至っての買い物は博打みたいなものであるからである。ドブにすてるつもりならいざしらず、有料老人ホームなど決してよくないと言いたい。

ちょっと小金をもっている人々は退職金をはたいて有料老人ホームにと思うようであるが、マスコミもそういう情報を流すので本当によくないのだが、それははっきり間違いである。無知で若いだけのマスコミの記者が考える貧しい発想である。老人ばかりが暮らすケア付き老人ホームに住み慣れた土地を離れて全財産叩いて引っ越しても不幸である。生活意識が異なる人の中に入ってしまったらそれこそ地獄と化すだろう。

介護保険サービスや関連サービスを頭脳的に使いながら最期まで自分らしい終末を自らつくる、そいういう気概が高齢者には欲しい。
家族に頼ることなく、社会的サービスを賢く使いこなせば、必ず満足した誇り高い最期が迎えられると思うのだがどうだろうか。そういうことが可能である高齢期の生活支援の体制をつくることが必要なのだ。

吉田秀和氏は最期まで鎌倉の自宅で執筆活動を続けていた。庭の木々、鳥のさえずり、何十年も慣れ親しんだ生活環境を一つも変えることなく最期を迎えた。そういう最期をだれもがイメージし、与えられた人生を全うすることができるようにすべきなのだ。

高齢期の生活支援はそういう最期を支えるというのが哲学でなければならない。

へんてこりんな「お客様第一」のバカ高い有料老人ホームなど、愚かな消費者の人生最期の愚かな買い物に過ぎない。
また、ぎりぎりまで家族が身を粉にして・・・というのはよくない。家族の健康、老後が危なくなってしまう。
家族も社会的サービスを頭脳的に使いこなし、親の生活、自分の生活、両方支えられるように考えるべきである。



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