サッカー日誌 / 2011年02月26日


細谷一郎さんのストライカー人生


Jリーグ発足前、マグマ伏流の時代

サッカー史研(2月21日 JFAハウス)

◇日本サッカー変革の過渡期
 日本サッカー史研究会の2月例会には、細谷一郎さんを招いた。1960年代から1970年代末にかけて、神戸高、早稲田大学、三菱重工で活躍、元日本代表の経歴も持つ。
 細谷さんは、日本のサッカーが大きく変わる過渡期にサッカー生活を送った。
 神戸高校は戦前の神戸一中の伝統を受け継ぐサッカーの名門校である。テクニックとショートパス重視が伝統だった。その神戸一中が新制高校になって、どう変わったか。戦後の学制改革で切り替わった直後の時期を体験している。
 早大では関東大学リーグに3度、天皇杯で1度、優勝している。大学が日本のサッカーの中心だった時代の最後の時期を飾った選手だった。
 三菱では、日本リーグで3度、天皇杯で3度優勝した。実業団(企業)黄金時代のストライカーだった。

◇国際化と代表苦難の時期
 日本代表に選ばれたのは、1968年メキシコ・オリンピックのあとである。メキシコ銅メダル組は、その4年前の東京オリンピックのために少数精鋭で集中的に強化されたチームだった。その主力のほとんどが退いて、日本代表チームは再スタートに苦しんでいた。その代表苦難の時期に、細谷さんは代表チームに呼ばれた。
 監督は岡野俊一郎、長沼健(2度目)、そして二宮寛だった。岡野、長沼はドイツから招いたクラマーさんの愛弟子である。二宮寛は三菱の監督のとき、ドイツのバイスバイラー(当時、ボルシア・メンヘングラッドバッハ監督)に学び、同じドイツでも、クラマーとは違うところを取り入れた。さらにブラジル、アルゼンチン遠征なども試みて、南米のサッカーも取り入れようとした。細谷さんは三菱と日本代表の両方で、欧州と南米のいろいろなサッカーを学んだ。日本サッカーが国際化していこうとしている時期だった。

◇大企業のエリート社員として
 細谷さんが選手生活から退いたのは1979年である。大企業のエリート社員として社業に専念することとなる。当時としては、ふつうのことだった。しかし、貴重な経験を蓄積している細谷一郎をサッカー界が失うのは「もったいない」と思って、そういう趣旨の記事を「サッカーマガジン」に書いたことがある。その記事を細谷さんは覚えていてくれた。
 1992年にJリーグができたとき、細谷さんにはサッカーに戻る選択肢もあった。三菱の後身である浦和レッズの指導者あるいは経営者に転身する道があった。「でも、家族が反対しました」と細谷さんは言う。三菱系の会社役員に出世することが目に見えていたのだから、ご家族の反対は当然だろう。
 細谷さんの貴重な思い出話を聞きながら、プロ化によって日本のサッカーが噴火する前のマグマ伏流の時代を生きてきたのが、細谷一郎のサッカー人生だったのだろうと思った。


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