サッカー日誌 / 2008年09月20日


ベッケンバウアーの生家を訪ねる


クラマーさんへの感謝の旅(11)
9月1日(月)午後、ミュンヘン市内

★買い物と見物の予定を変更して
 「クラマーさんに感謝するドイツの旅」で、ずっとドイツ語の通訳をしてくれたのは明石真和さんである。駿河台大学のドイツ文学、ドイツ語の教授で『栄光のドイツサッカー物語』(大修館書店)の著者だ。中条一雄さんが『デットマール・クラマー、日本サッカー改革論』(ベースボール・マガジン社)を書くための取材で、クラマーさんを訪ねてインタビューしたとき、2回にわたって1週間ずつ同行して協力した。そのおかげで、今回のツアーの企画が生まれ、実行できたのである。
 その明石さんが「ベッケンバウアーの育った家が、そう遠くないところにあるはずだから探してみる」という。バイエルン・ミュンヘンのクラブを訪ねたあとである。
 市の中心部に出てもう少し見物や買い物をする予定の人もいたのだが、みな「それは面白い」とぞろぞろ、ついて行った。

★赤煉瓦の壁に「くぼみ」があるか?
 これには、ちょっとした伏線がある。クラマーさんが、こんな話をしたことである。
 「ベッケンバウアーが18歳のころ、知り合ったばかりだったが、自分の家に案内してくれたことがある。近くに赤煉瓦の壁があった。子どものころ、小さなボールを蹴って、1か所に当てる練習を毎日繰り返したために、壁にくぼみができていた」
 ほんとだろうか? いまでも赤煉瓦の壁に「ベッケンバウアー苦辛の跡」のくぼみがあるだろうか?
 明石さんが本で読んで覚えていた通りの名前を頼りに市街電車で出かけた。
 「オストフリートホフ」という市電の交差点で降りて、ちょっと歩くと、その通りはすぐ見つかった。ツークシュピッツ通り6番地。歩いていたおじさんに尋ねたら「それはここだよ。今は住んでいないけどね」と、すぐ教えてくれた。

★少年時代のクラブの跡も
 別に表示があるわけではない。なんの変哲もない4階プラス屋根裏部屋の白い壁の市街地アパートだった。昔は「聖ボニファティウス広場」という地名だったという。
 通りの向かい側に小さな公園のようなスポーツ施設があった。あとで明石さんが調べてくれたところによると、ベッケンバウアーが初めて所属したクラブ、SC(ギージング)1906のあったところだという。少年フランツは、ここからバイエルン・ミュンヘンへ移籍したのである。
 近くの別の通りに長い赤煉瓦の壁があった。霊園の塀の外側だった。「くぼみ」があるかどうかは確かめられなかった。
 ぼくたちツアーの一行は、平凡な街のアパートを背景に、ぱちぱち写真を撮って、おおいに満足した。

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