私はボランティア団体が嫌いだ。
いや、例外はいる。逆に私に接してくる団体が例外なのかもしれない。
嫌いな理由は「助けてもらう」が前提にある事だ。
ボランティア自体、無償で誰か(何か)を助けている事があり、方々から賞賛されている。
だから、時代に合わせて書けば「賞賛ハラスメント」を押し付けている感じがある。
先日も揉めた。というか呆れた。
隠さず書こう。
私の商品を購入したいというので見積を出した。
その金額は80万。それを「50万でできないか?」と言ってきた。
この段階で非常識である。50万で作れる商品を80万で売っていればボッタクリだ。
正当な利益、適正価格として80万である。
ただ、50万でできる方法もある。
それを提案し、承諾を得てから訪問した。
商品を説明すると「こんなチープな材料ではイヤだ」とゴネ出した。
ここまでは仕方ない。イメージしていたものと違ったのだろう。
が、「ウチ(ボランティア団体)が、いかに苦労しながら素晴らしい活動をしているか」を説きだした。
要するに「80万の材料を『人助けと思って』50万にしろ」という意味だ。
しらんがな。
もし、貴様を助けたら、なぜ他の方々を助けないのか? という話になる。
さらに「なぜ助けねばならないのか?」となる。
貴様たちがやっている行動、活動、理念がどれだけ素晴らしいものであっても、私は協賛できない。
ハッキリ言おう。
「趣味でやっているのと同じ」だ。
趣味に収益を求める事は無いだろう(実益を兼ねるものもあるが)
趣味は、自分の懐で、他人に迷惑を掛けずにやるものだ。
私は、こんなヤツに自分の商品を使って欲しくない。
だから黙って去った。
今、相手のThreadsには私の悪口が書かれている。
賛成意見ばかりで恐怖を感じるが、一部の宗教と同じで「自分が正しい=他人は間違えている」というバカな奴らの集まりだ。気にする時間も勿体ない。
(宗教は否定しない。人類、文化の成長に密接に関わっているからだ。否定するのは一部だけだ)
惜しむらくは、あの場で罵倒しなかった事だ。
ハッキリと「ママごとに付き合う余裕は無い」と言って差し上げるべきだった。
いや、例外はいる。逆に私に接してくる団体が例外なのかもしれない。
嫌いな理由は「助けてもらう」が前提にある事だ。
ボランティア自体、無償で誰か(何か)を助けている事があり、方々から賞賛されている。
だから、時代に合わせて書けば「賞賛ハラスメント」を押し付けている感じがある。
先日も揉めた。というか呆れた。
隠さず書こう。
私の商品を購入したいというので見積を出した。
その金額は80万。それを「50万でできないか?」と言ってきた。
この段階で非常識である。50万で作れる商品を80万で売っていればボッタクリだ。
正当な利益、適正価格として80万である。
ただ、50万でできる方法もある。
それを提案し、承諾を得てから訪問した。
商品を説明すると「こんなチープな材料ではイヤだ」とゴネ出した。
ここまでは仕方ない。イメージしていたものと違ったのだろう。
が、「ウチ(ボランティア団体)が、いかに苦労しながら素晴らしい活動をしているか」を説きだした。
要するに「80万の材料を『人助けと思って』50万にしろ」という意味だ。
しらんがな。
もし、貴様を助けたら、なぜ他の方々を助けないのか? という話になる。
さらに「なぜ助けねばならないのか?」となる。
貴様たちがやっている行動、活動、理念がどれだけ素晴らしいものであっても、私は協賛できない。
ハッキリ言おう。
「趣味でやっているのと同じ」だ。
趣味に収益を求める事は無いだろう(実益を兼ねるものもあるが)
趣味は、自分の懐で、他人に迷惑を掛けずにやるものだ。
私は、こんなヤツに自分の商品を使って欲しくない。
だから黙って去った。
今、相手のThreadsには私の悪口が書かれている。
賛成意見ばかりで恐怖を感じるが、一部の宗教と同じで「自分が正しい=他人は間違えている」というバカな奴らの集まりだ。気にする時間も勿体ない。
(宗教は否定しない。人類、文化の成長に密接に関わっているからだ。否定するのは一部だけだ)
惜しむらくは、あの場で罵倒しなかった事だ。
ハッキリと「ママごとに付き合う余裕は無い」と言って差し上げるべきだった。