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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三菱倉庫越前堀倉庫。中央区新川1-32。1987(昭和62)年2月1日

かつて隅田川の永代橋のすぐ下流に「三菱倉庫越前堀倉庫」、その南に「住友倉庫東京支店」の、ビル型の巨大な倉庫があった。今ではこの、隅田川沿いの倉庫街だった面影はほとんど感じられない。
『日本近代建築総覧』では「三菱倉庫越前堀倉庫、中央区新川1、建築年=昭和7年、構造=RC4階建、設計=三菱倉庫K.K.?、施工=竹中工務店他(分割請負)」。『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)の写真のキャプションは「三菱倉庫株式会社越前堀倉庫(現存)/竣工年=昭和7年/設計者=同社/中央区新川1-32 隅田川に面した正面は曲面の壁になっていて1930年代の特色をもっている。解体・撤去で高層ビル建設の予定」。
「越前堀」とは明治になってつけられた町名で、江戸期は松平越前守(越前福井藩)の屋敷だった。そこを囲っていた掘割が越前堀である。その一部は戦後まで残っていたらしい。
三菱倉庫は撮影後じきに取り壊されたかと思う。現在建っている「東京ダイヤビル5号館」(15階地下2階)は1990年1月の竣工だ。上左の写真は隅田川側を南から撮っている。その中央辺りが右の写真。



三菱倉庫越前堀倉庫。1987(昭和62)年2月1日

上左の写真は北側のカーブした角、右の写真は隅田川に向いた面を表とすると裏側で、南から撮っている。
三菱倉庫と道一つ隔てて南にあった住友倉庫は三菱倉庫の撮影時にはすでに現在の「東京住友ツインビル」を建設中で、写真は撮っていない。



倉庫の裏側を北から。1986(昭和61)年3月9日

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クリフサイド。神奈川県横浜市中区元町2-114。2016(平成28)年12月23日

元町商店街から山手大通りへ出る坂道のひとつに代官坂がある。代官坂は途中で代官坂トンネルへ向かう道と二股になるが、ほぼそこからトンネルまでの間に建つ大きい建物が「クリフサイド」。1946年に創業したダンスホールで、じきにナイトクラブとして営業した。今は社交ダンスをする客にフロアを開放しているほか、週末にバンドによるライブが聴けるレストランとバーという形で営業しているという。
建物は白い壁と複雑な赤い屋根が特徴だが、窓がないのが異様な感じもする。建設時は普通に窓があったようだが、住宅地という回りの環境を考慮して明りが漏れないように改装したのかもしれない。建物の設計者が判るとは思わなかったが、『 Yomiuri Online>代官坂「クリフサイド」の白い壁(後編)2015.05.22』に出ていた。「意匠設計は、大阪出身の建築家で、日本人として初めてパリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に留学し、フランス政府公認建築士の資格を得た中村順平(1887-1977)だ。大正13年(1924年)に帰国した中村は、横浜高等工業学校建築学科(現・横浜国立大学理工学部建築都市・環境系学科)で教鞭きょうべんをとった。/当時、日本の建築教育では構造が重視されていたが、中村はボザールで受けた芸術面を重視した建築教育を実践した」。大阪歴史博物館での特集展示「中村順平と建築芸術教育」(2015年6-7月)の担当学芸員酒井一光氏は「時期的に、中村が横浜高等工業学校の教授を退官する前後にあたり、お弟子さんの設計事務所が発注を受け、実際の意匠設計を中村が手がけたことが、残った資料からわかっています。まず終戦直後の資材のない時代に、あれだけ大きな建物を建てたこと自体が奇跡的です。全体のデザインが、フランスのアール・デコ様式の特徴をよく備えており、プロポーションよく造られている。中村のデザインの特徴をよく示しています」と述べている。
写真手前は玄関ホールのある棟で、後方が約100㎡、高さ3階分の吹き抜けのメインのダンスフロアがある棟という構成らしい。



宮崎生花店。横浜市中区元町2-108。2016(平成28)年12月23日

クリフサイドから坂を少し下がった同じ並びにある店。古い日本家屋のようだが、店舗はガラス張りの温室のようような造りで、洋風な感じだ。宮崎生花店は1873(明治6)年の創業というが、居留地の外国人を相手にしたのだろうか。写真の建物は関東大震災後の大正末に建て直したもの。

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山手214番館。神奈川県横浜市中区山手町214。2016(平成28)年12月23日

『日本近代建築総覧』では「214 PERSSN邸」となっている。横浜共立学園が214番館を購入したのは1972(昭和47)年で、それ以前はPerssnという人が住んでいたのかもしれない。
『ハマの建物探検』(横浜シティガイド協会著、神奈川新聞、2002年、1,000円)によれば、1927(昭和2)年にエドワード・メンデルソンという人が自邸として建てたものという。メンデルソンはスウェーデン系会社の日本代表を務め、同国の名誉領事を兼ねていた。名誉領事という肩書だけで214番館を「旧スウェーデン領事公邸」としていいものなのだろうか? 夫人は、戦後、エリザベス・サンダース・ホームに関係していた、ともある。
現地の説明板によれば、建物は木造2階建てでRC造の地下室を持つ。袴腰屋根と2階の屋根窓形式の窓が特徴。間取りは、玄関ホールと階段を中央に、左右に主たる部屋を配した中廊下型のプランで、玄関ホール西側に暖炉を持つ大広間・東側に洋室が2室、2階に寝室が3室配されている。


山手214番館。横浜市中区山手町214。2016(平成28)年12月23日

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山手26番館。神奈川県横浜市中区山手町26。1993(平成5)年5月5日

山手本通りに「中央大学横浜山手中学校・高等学校(旧横浜女子商業学園)」だった校舎が残っている。2013年に筑区牛久保東に移転し、現在は「学校法人中央大学」の看板になっている。この跡地の今後が気になるが、やはりマンションが建つのだろうか。その校舎の西から、北へ下る路地があり、その路地から26番館が見下ろせる。路地を下っていけば山手トンネルの元町側の出口に降りられそうだが、ぼくは未踏査である。
26番館は平成25年に横浜市の認定歴史的建造物に指定された。「構造=[主屋]木造平屋[附属屋]木造2階、建築年代=大正末期(関東大震災後)、設計・施工=不詳」とある。写真の建物は平屋に見えるから「主屋」に当たるのだろうか。附属屋というのは山手本通りに面してガレージになっている建物を指しているのだと思う。
26番館の特徴は応接室の外側にサンルームがあること。同じ窓の、写真で手前に出ている部分は出入り口で奥に廊下が通っている(「住総研 研究論文集No.42、2015年版」『横浜山手に現存する個人所有住宅(洋館)の履歴・変遷とその考察』)。
写真右の建物は関東大震災後に建てられた洋館のようだが、塀にさえぎられてよく観察できない。地図では「東洋物産」となっている。


山手26番館。2013(平成25)年4月18日

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山手8番館。神奈川県横浜市中区山手町8。1993(平成5)年5月5日

山手本通りの三育幼稚園前交差点と地蔵坂上交差点との中間あたりにあった洋館。「イタリア山庭園前」バス停がすぐそばにある。建物は平屋だが天井裏の部屋もありそうだ。白い壁はモルタルだろうか。外観には人目を引くような要素もなく色彩的にも地味だ。ぼくは歳のせいかもしれないが、こういうさりげない家が好ましく思える。
この家の裏手に「山手2番館」(東日本 近代建築万華鏡>横浜市(中区 山手地区))があった。下の写真は8番館の横(西)の路地の方から撮っていて、2番館へはその石垣のある路地の坂道を下って8番館の裏へ回っていく。


山手8番館。横浜市中区山手町8。1993(平成5)年5月5日

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山手34番館。神奈川県横浜市中区山手町34。1993(平成5)年5月5日

山手本通りに面して現存する洋館。Google地図では「BLUFF34」で、住所は34番地らしいが、『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では「35番、建築年・設計・施工=不詳、木造2階建、中区山手35」である。『日本近代建築総覧』にある「35 SHIANO PAN、中区山手町35、建築年=大正、木造2階建、備考=マンサード屋根シングル葺」と思われる。「シングル葺」とははじめて目にしたが、薄い板を並べるという最も基本的な屋根の葺き方だという。
壁のうろこ状に貼られているのは、神戸北野の「うろこの家」と同様なスレートだろう。屋根に葺くことはあっても壁の材料としては珍しいから、この家も有名になってよさそうなものだ。この家を紹介したサイトはあまり見当たらないが、『近代建築写真室@東京>横浜山手の34番館』がある。


山手34番館。2013(平成25)年4月18日

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