ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





浅草寺病院。台東区浅草2-30
上:1988(昭和63)年5月1日
左:1987(昭和62)年4月4日

月刊岡田信一郎第12号(2000年2月)』によると、1936(昭和11)年12月竣工、施工は竹中工務店、設計者は不明。浅草寺病院のHPに「1937(昭和12)年1月 浅草寺病院新築落成。浅草寺医療院に改称」とある。ちなみに、浅草国際劇場と浅草世界館の完成が昭和12年だ。「浅草寺病院」と改称したのは戦後の1948(昭和23)年9月。
浅草寺病院の前身は1910(明治43)年8月に浅草寺境内念仏堂に設置された「浅草寺診療所」で、10月には六十六仏堂供所に移し「浅草寺救護所」とした。「明治43年の大水害」による被災者を救うためで、この災害は荒川放水路を建設する契機になった。
Google古地図の昭和22年航空写真をみると、建物は3階建ての陸屋根である。4階はその後の増築で、瓦屋根もたぶんその時の改装かと思える。その際、「月刊岡田信一郎」で言及されているように、岡田の設計になる「浅草寺一山支院」とデザインの統一をはかろうとしたことは考えられる。
現在の建て替えられた建物は2002(平成14)年12月の落成。



浅草寺病院。1987(昭和62)年4月4日

『追憶の東京 下町、銀座編』(小針美男、川本三郎、河出書房新社、2006年、1500円)に浅草寺病院のペン画と共に、美空ひばりがこの病院に入院した時に川田晴久が献身的な世話をした、ということが記されている。1957(昭和32)年1月13日、浅草国際劇場の「花吹雪おしどり絵巻」公演の千秋楽で、大川橋蔵と出演していた美空ひばり(当時19歳)が、ファンの少女から塩酸をかけられた。有名な「美空ひばり塩酸事件」だ。緊急搬送されたのが浅草寺病院で、3週間入院していたという。
浅草国際劇場の開館と浅草寺病院の落成が昭和12年だったと既に述べたが、美空ひばりが生まれたのが奇しくも昭和12年である。

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初音小路。台東区浅草2-7。上:2005(平成17)年7月16日、下2枚:2015(平成27)年12月25日

初音小路は西参道と花やしき通りの間にある飲み屋街。場外馬券売り場の横にあるので、競馬を楽しむ人がここで飲みながら過ごすらしい。平日の競馬を開催していない日はどんな具合なのだろう? 観光客は少ないというが、確かに吾妻橋の方からここに来るとすると、その間に見るべきものがいろいろあって、ここまでたどり着けないかもしれない。路地には藤棚がしつらえられていて、店も路地にテーブルと椅子を出す。花の咲く時期はその藤棚の下で飲むことができる。これはずいぶんといい気分になれると思う。
初音小路はひょうたん池を埋め立ててできた、という記述がネットではよく見かける。そういう認識でもいいように思うが、1951(昭和26)に池を埋め立てた跡地にできたのは、「浅草宝塚劇場」、「楽天地スポーツランド」(昭和27年)と「新世界」(昭和34年、娯楽の殿堂を謳った、現在はウインズ浅草)とその東の通りである。浅草寺が空襲で焼失した本堂(観音堂)の再建費用を捻出するための埋め立てで、土地を売却した金額で費用の半分をおぎなえたという。
初音小路は池の埋め立てに伴う整備の過程でできた。『地図物語-あの日の浅草』(武揚堂、2007年、1800)に、「西参道の開通は昭和30年2月」とあるから、初音小路も同じ頃の成立ではないだろうか。長屋風の建物は見たところRC造のように見える。
藤の木はひょうたん池の周囲にあった藤棚のものを移植したもの、という説もある。伝説のような気もするが、ひょうたん池をしのぶためにはあまり深く考察しないほうがよさそうだ。


初音小路。2015(平成27)年12月25日

1枚目写真の右の、3枚目写真の手前の駐車場は稲村劇場があった跡だ。昔は縁日や祭りには見世物小屋がたったそうで、稲村劇場は常設の見世物小屋。戦後まもなく出来て昭和50年頃まであったという。ネットでは『タナベ昭和館』の「宇和島 芝居・活動小屋幻景 8[最終回]」に解説と貴重な写真が載っている。『ぼくらは下町探検隊』(なぎら健壱著、ちくま文庫、2003年、780円)には、呼び込みの様子が記されている。残念ながら著者は中には入らなかったそうだ。

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浅草観音温泉。台東区浅草2-7
上:1988(昭和63)年5月14日、下:2015(平成27)年12月25日。右下は浅草寺の五重塔から


『ウィキペディア』によると、浅草観音温泉は1957(昭和32)年の開業。温泉は「重曹泉(ナトリウム-炭酸水素塩泉)で26.3℃から加温、循環式、黒湯だが濾過して淡黄色」。『立ち寄り湯みしゅらん>浅草観音温泉★★』には浴場に掲示してある成分表に「地下3000尺、湯涌量1日8000石、温度28度」とあるそうで、つまり「地下909m、湧出量100ℓ/分となる。実際はもっと浅いらしい」としている。
開業した1957年というと2月に石橋湛山内閣から岸信介内閣に変わった年で、10月にソ連がスプートニク1号を打ち上げた。アメリカ大統領はアイゼンハワー。流行語はなんといっても「太陽族」。ネットで潜入レポートを見ると、外観も内部の施設もその当時からほとんど変わっていないようである。1枚目の写真では屋上に「娯楽と憩いの霊泉」のネオンサインが残っている。この頃は後ろに四角柱の煙突がまだあった。今はビルを覆うまでになった蔦も入口の看板の下を這っているだけ。
玄関の上の看板に「唄と踊りで今日を楽しく」とあるのは3階の大広間演芸場があったからで、歌と踊りはプロの芸を見るのではなく客が自分で演じて楽しむものだったのだろう。今は土日に休憩室として利用できるだけだ。それでも看板を替えないのが今や客を呼ぶ要素といっていい。看板には「酒は大関」と「男は黙ってサッポロビール」の文字もある。大関株式会社とサッポロビール株式会社が看板の設置費用を折半したのかもしれない。大関のほうは「酒は大関こころいき」としたほうがTVコマーシャルとはっきり判るし、サッポロとの文字数のバランスもとれたのではないかと思う。「酒は大関」の歌は1965(昭和40)年からのCMかららしい。「男は…」のCMは1970(昭和45)年の登場。


ひさご湯。浅草2-24
2005(平成17)年7月16日

花やしきの裏手にあった銭湯で、ひさご通りの中ほどから横町を東へ入ったところ。2006年6月15日で廃業したそうだ。今は「ライフピア浅草(10階建て28戸、2012.03築)」というマンションに建て替わっている。ひさご湯の創業や写真の建物をいつ建てたのかは不明。
周辺は言問い通りのすぐ裏手で旅館や料亭が多くあった場所だ。ひさご湯の隣の駐車場は1986年の地図では「旅館なみ寿」となっている。今もひさご湯(現・ライフピア浅草)の裏に「旅館やなぎ」と「旅館夕月」だった古い建物が残っている。

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上田玩具店、喫茶ダービー。台東区浅草2-28。1988(昭和63)年5月14日

ひさご通りの南の入口辺りから花やしきのほうを撮ったもの。ダービーは花やしきを囲むように建っている店の一つなので、花やしきの借家だったらしい。今は「浅花風(アハナウィンド)」という花やしきのみやげ店が入ったビルになっている。
建物は戦後まもなく建てられた看板建築風の仮建築かと思う。1966(昭和41)年の地図では「パチンコ浅草会館」。1969年の地図では「純喫茶ダービー」に変わっている。昭和26年(まだひょうたん池がある)と思われる火保図に「浅草會舘」とあるのはパチンコ屋だったらしい。



花やしき裏側。浅草2-28。2005(平成17)年7月16日

ダービー(現・浅花風)の横を入ると、花やしきに沿って斜めに言問い通りへ抜ける道路である。通り名はないと思うがつければ「花やしき裏通り」だろうか。写真は消火栓の位置が今も変わらないとすれば、裏通りに入ってすぐのところ。屋上の手すりなどが古い建物に見える。今は建て替えられたようだが、少し左へいくと1階が同じ仕様の建物が部分的に残っている。

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浅草中映会館。台東区浅草2-10。左:2008(平成20)年4月2日、右:1988(昭和63)年5月14日

左の写真などはつい最近撮ったような気がするのだが、写真のビルは2012年夏に解体され、2013年12月13日にドン・キホーテ浅草店が新築開店した。
『ウィキペディア>大勝館』によると、映画館だった大勝館が1971(昭和46)年10月に閉館。建物は取り壊され、翌1972年12月に浅草中映会館が建築された。3・4階がボウリング場で、一般には建物も「中映ボウル」と言っていたようだ。1977年にアポロ(地階、成人映画)、キャピタル(2階、洋画名画座)、ロマン(2階、成人映画)の3つの映画館が設けられた。1981(昭和56)年にボウリング場と映画館が閉鎖されると、建物周囲を鉄塀で囲い廃ビルになってしまった。たった10年で終わってしまうとは、浅草の集客力は当時かなり深刻だったのだろうか。その後、2001年から2007年まで大衆演劇の「浅草大勝館」として興業を行った。

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左:セキヤ、台東区浅草1-25。右:ポップ・イン、浅草1-23。1988(昭和63)年5月1日

上の写真は2枚とも六区の南端辺りから左右の横町を撮ったもの。左写真の後ろのビルはROXビル。松竹の劇場や映画館があったところに1986年に新築オープンした。手前の低層の建物は1986年の地図ではセキヤ(業種不明)と伊勢屋(洋品)。戦前は「大東京」という映画館があったところで、建物疎開で取り壊され、戦後5軒の商店が建った。それらの建物は今も残っている。写真の2軒は今では、とんかつの「さぼてん」と中華そばの「日高屋」に替わっている。

右写真はにくまんとシューマイが有名な「セキネ(関根)」の建物の右側で、「ポップ・イン」という喫茶店。セキネは元々はパン屋だったという。写真では奥に「ゲームセンター/ナゴヤ」の看板が見える。1966年の住宅地図では手前から「セキネ菓子店、ラッキーボール/ナゴヤパチンコ、花月食堂」で、その頃から変わっていない。今は喫茶店が「PRONTO」、ナゴヤが「アミューズメントA」というゲームセンターだったのが最近「磯丸水産」という店に替わったようだ。



左:金玉堂。浅草1-40。1988(昭和63)年5月14日
右:ろばた焼き 荒磯。浅草1-41。1985(昭和60)年1月

金玉堂としたビルは昭和40年頃に建てられたものかと思うが、今も外観をきれいにして残っている。写真右の通りが「浅草公園通り」で、陶器の金玉堂の店舗は写真のビルの公園通りの向かい側にある。写真のビルは倉庫に使っていたのだろうか?
平成9年4月、公園通りの新仲見世から北の街路を緑の煉瓦敷きに替えてその部分を「公園通りグリーンロード」と改称した。公園通りの名称は戦前の「公園劇場」から来ているそうで、公園劇場は新国劇の沢田正二郎の公演でにぎわった。戦時中に建物疎開で取り壊されたという。グリーンロードの居酒屋「沢正」の看板には「浅草公園劇場跡」の字を入れていた(『浅草そぞろ歩き~公園通りと浅草グリーンロードの巻~』)。今、ストリートビューを見ると、同じ居酒屋だが「弥太郎」という店に替わっていた。

右写真は伝法院通りから六区へ向かう通りで、今は「浅草六区通り」の表札のある灯篭が置かれている。写真右手に「ロックフラワーロード」の表示がある街灯が写っている。『浅草そぞろ歩き~浅草六区通りの巻~』によれば、平成17年3月31日に名称を変更した。荒磯の建物は戦前築の洋風看板建築に見えるが、もちろん戦後のもの。現在は3階建てのビルに建て替わった。その両隣の建物は残っている。

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