ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




サカエ薬局。文京区千駄木2-11。1990(平成2)年5月6日

当ブログ前回の写真に写っている富士銀行根津支店(現・みずほ銀行根津支店)の北の並びで、写真右が北方向。住所は千駄木だが根津のほうがとおりがいいので根津支店を名乗っている。根津東映も同様だったのだろう。
写真右から、サカエ薬局、そば處丸安、かめや布団店、馬場靴店、仕舞屋、左端の赤い日除けが富士屋洋品店。
現在の不忍通り沿いはマンションが立ち並ぶようになったが、このブロックも「モンテベルデ千駄木」(1995年築)と「パロス千駄木」(1997年築)などになっている。



冨久寿司。1枚目の写真の左に写っている建物。冨久寿司と富士屋洋品店が入っている。1990(平成2)年5月6日

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石川書店。文京区千駄木2-1。1990(平成2)年5月6日

不忍通りと根津裏門坂との交差点が千駄木2丁目交差点で、写真はそこからすぐ北のところ。写真左の駐車場は交差点角にあって、根津東映という映画館があった跡だが、なぜかいまだに駐車場のままだ。明治38年に芙蓉館という芝居小屋が建ったのが始まりで、そのときの建物のままで昭和14年に根津東宝となり、戦後に根津東映となって昭和43年頃に閉館したという。(『東京路上細見1』(林順信著、平凡社、1987年)参照)
写真左の四軒長屋には「千駄木屋」「本・石川書店」の看板が読めるが商売はやっていないようだ。バス停は「千駄木2丁目」。



望月商店。千駄木2-1。1990(平成2)年5月6日

1枚目の写真の続き。たばこ屋は望月商店。その右の看板建築の長屋は6番地になるが、和(ファミリー・ステーキ・鉄板焼)、どさん子(札幌ラーメン)、花祐、東京不動産企画が入っている。

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中央区立東華小学校。中央区日本橋人形町1-1。1985(昭和60)年5月6日

東華(とうか)小学校は明治34年の開校。東華のいわれは稲荷堀(とうかんぼり)という掘割が近くにあったから、という説もあるがちょっと怪しい。写真の校舎は昭和4年に竣工したもので、設計:東京市、施工:大林組という。



中央棟と東翼。1990(平成2)年3月



中央棟と西翼。1990(平成2)年3月



講堂。1990(平成2)年3月


玄関
1990(平成2)年3月

東華小は震災復興期の小学校にしてはデザインがあっさりしていて、これという装飾もない。唯一、玄関の4本の柱に庇を支えるような形で三角錐の柱を置き、扉の窓をデザインしている。
平成2年4月に十思小学校と合併して日本橋小学校となった。新校舎建設のため8月23日に十思小の校舎に移っているので、夏休み前の1学期はこの古い校舎で授業が行なわれたらしい。

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萬屋果物店。中央区日本橋人形町1-18。1985(昭和60)年8月4日

当ブログ前回と同じ場所で、花見せんべいの吾妻屋の北側。アーチのアーケードの奥が大観音寺で、その路地の角が萬屋果物店。その右のビルに京粕漬けの魚久(うおきゅう)が店を出している。現在は魚久は通りの向かいに移り、牛丼の松屋が入っている。
アーケードが魚久のところで切れているが、アーケードを撤去してモール街として整備するためである。アーケードを設置したのは1951(昭和26)年。『東京案内記』(木村毅 編、黄土社書店、昭和26年)に次の記述がある。
 このいわゆる「アーケード」という奴、巾四メートル、ヨロイ戸開閉式の日除け、雨よけ屋根で設計は早大理工学部の秀島講師。四十メートルの烈風にも耐え、夏は太陽熱を反射して寄せつけないし、羽根を調節して涼風を流しこむ。夜は屋根の下にとりつけたケイ光燈が美しく輝き、銀色のジュラルミンに反射して夢のような雰囲気をかもしだす。総工費三千万円で、いずれは水天宮から人形町まで両側を全部ジュラルミンアーケードにするのだというから実力の程も知られよう。


大観音寺の路地
1987(昭和62)年6月7日

写真からは、マーガレット(スナック)、マルジュウ(喫茶)、ヤマカワ(印章・ゴム印)、よし梅、が認められる。料理屋のよし梅が有名だ。建物は昭和2年頃の建築で、「震災復興期建設の2階建で数寄屋風意匠の住宅」ということで、「よし梅芳町亭」の名称で登録有形文化財になっている。路地に面した建物も戦前のものなのだろうが、写真の看板のところから奥へ入ったところに別棟で「柳家」という待合だった家があり、登録有形文化財はその家ではないかと思う。

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吾妻屋。中央区日本橋人形町1-18。1985(昭和60)年8月4日

人形町通りの大観音寺の入口。写真右奥の階段の上が大観音寺。まだアーケードがある頃の写真だが、大観音寺の前は提灯が吊るされるようにアーチ型になっている。旅路(喫茶店)と花見せんべいの吾妻屋はひとつの建物かもしれない。
大観音寺が今の建物になったのは昭和35年頃かと思う。そのまえの建物だったときに、横の路地を通ったのをかすかに憶えている。写真左端は東京銀行だが、人形町松竹映画劇場が建て替わったビルである。人形町松竹のビルには松竹のほかに人形町ユニオンと人形町浪花座もあった。ぼくの知っているユニオンは4階まで階段を上がっていくフロアにあって洋画の二本立てだったが、昭和30年頃の火保図には「ユニオンダンスホール」の記載があるので、映画館の前はダンスホールだったのかもしれない。現在のビルになったのは昭和50年頃だったように思う。



吾妻屋の店先。1986(昭和61)年4月6日


人形町松竹
(2009.01.11追記)

左の写真は『にほんばし人形町』(編集・発行:人形町商店街協同組合、昭和51年)から引用したもの。「人形町通り あの頃」というグラビアページの「銀座ここにありき」という記事の写真である。写真のキャプションは「区画整理前 大正15年頃の蛎殻町銀座跡」。現在の人形町1丁目は関東大震災後の区画整理の前は蛎殻町2丁目になる。写真中央に「南谷本店」が写っているが、現在も人形町通りにある家庭用品・化粧品のなんや商店だろう。なんやが現在地と同じ場所なら写真右のビルが人形松竹のビルになるはずだ。これが人形町松竹と示されてもピンとこないのだが、昭和38年の航空写真でみるビルとは矛盾しない。


ユニオンダンスホール(2010.07.28追記)

人形町松竹のビルの5階に「ユニオンダンスホール」があった。ネット検索すると服部良一がここで演奏していた、という記述が出てくる。服部良一が昭和8年に大阪から上京して最初に就いた仕事が、ユニオンダンスホールの楽員としてサックスを吹くことだったという。
『菊池清麿・随想・昭和博物誌>日本ジャズ史・昭和フロリダモダン』には「1928(昭和3)年に大阪のユニオン系のホールが朝日舞踏場を買収してダンスホールにした」とある。昭和15年11月で、時節柄好ましくないと閉鎖されたはずだ。戦後になってダンスホールはまたはやるのだがユニオンが再開されたどうかは知らない。
ここに出したマッチラベルで「大阪ユニオン東京支社」がビルの地下にバー、4階にレストラン、5階にダンスホールを経営していたと分かる。マッチの裏側が「日本麦酒鉱泉株式会社」の「ユニオンビール」の宣伝。これはただの偶然だろうか?

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あだちや酒店。台東区谷中1-4。1989(平成1)年3月12日

言問通りの善光寺坂を登り始める辺りで、大黒屋・中野パン店に続く家並み。この家並みは今もまだ変わらないようだ。



野内電機店。台東区谷中1-5。1989(平成1)年3月12日

善光寺坂を半分くらい登ってきた辺り。写真左に日よけを出しているのは金開堂という日本画の岩絵の具などを売る画材店。現在、写真に写っている古い家は全て建て替わった。

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中野パン店。台東区谷中1-3。1989(平成1)年2月26日

言問通りの善光寺坂の坂下である。信号は台東区谷中と文京区根津との境の道路が言問通りと交わる交差点のもので、写真左端の大黒屋せんべい店が交差点の角になる。大黒屋のほうはその古い店舗とともに味でも有名だ。写真右はかたなや雑貨店。現在も3軒とも残っている。



中野パン店。店の看板がなくなっている。1991(平成3)年9月23日



三叉路の角の家。谷中1-3。1989(平成1)年3月12日

大黒屋の角を北へ入ったところ。写真右奥の信号が言問通りとの交差点。写真左の丸山医院のほうの路地も言問通りへ出る。その間の区域は内角が90・60・30度の直角三角形のような形になる。その三角形の各辺の比が1:2:ルート3、というのを憶えたのは中学校でだったろうか。この三角形を作る道は江戸切絵図にもあるから、古い地図を見るときの目印になる。

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カヤバコーヒー店。台東区谷中6-1。1989(平成1)年頃

言問通りの上野桜木交差点角の喫茶店のカヤバは、谷中を紹介する本や雑誌の記事によく出てきていた有名な店だ。下町風俗資料館(旧吉田酒店)の向かいにあるからいやでも目について、ついでに寄っていく人もいただろう。昭和13年の開業という。どうもここ数年は休業中らしい。任せられる人がいないかららしいが、これだけの建物をほおっておくのはもったいない。



ナガマツ理髪店。谷中6-1。1989(平成1)年9月10日

カヤバコーヒー店に続いて北側に長屋や出桁造りの家など古い家が立ち並んでいた。ナガマツ理髪店の長屋は三軒長屋だろうか。現在は3階の低層集合住宅に建て替わった。

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