ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




竹田ビル、横田ビル。中央区銀座2-11。1986(昭和61)年9月7日

昭和通沿いに2棟の古いビルが並んでいた。写真左のルノアールが入る竹田ビルは今も健在だ。右の小さいビルは主に横田建材という会社が使っているようで、入口のガラス戸に横田ビルと書かれている。
竹田ビルは幾つかのサイトを参照すると、「1932(昭和7)年竣工、瓦屋根の6階は増築、元はホテル」。
戦前の火保図には「竹田ビル/竹田アパート/コ六」、横田ビルのほうは「四国ビル」と記入がある。昭和30年頃の火保図では竹田ビルの裏側に「竹田ビル」表側は「銀座ホテル/阪東調帯KK東京支店」、横田ビルは「自工ビル/自動車工業KK」となっている。



2005(平成17)年12月24日

隣の日本電工ビルが解体されて竹田ビルの側面が見えている。この写真からは6階建てとして建てられたようだ。正面は元は一段後退していたのを増築で埋めたように見える。ただしビルの前面と後ろとの床の高さが異なり、前面がそっくり別の建物のような感じだ。アパートまたはホテルにした部分とオフィスとして貸し出す部分とで構造を変えたのだろうか。


竹田ビルの裏側
1987(昭和62)年4月29日

裏のほうは表側とは違って、ただの古いビルで戦前の建築には見えない。6階は増築のように見える。現在は横田ビルの裏になる三光ビルと、城山産業とエースという喫茶店が入る家は新しいビルに換わった。
「相模書房」の看板が出ている。聞いたような名前だと思ったら、当ブログの根岸の記事でだいぶ引用した『東京の町を読む』の出版社だった。主に建築・土木に関する本を出しているという。










横田ビル。1987(昭和62)年11月6日
2020年6月20日追加

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日本ライト。中央区銀座1-15。1986(昭和61)年頃

前の左右の通りは昭和通り。日本橋の方から銀座に入ってすぐの新京橋交差点である。角の銅板貼りの建物は、現在は「銀座1丁目ビル」というのに換わっている。
下の写真のように「日本ライト」の看板が出ている。この建物を管理する会社かと思ってしまうが、長くこの建物に入居している会社らしい。昭和30年頃の火保図には「日本ライト社、三和映機社、日本興信所、山本」の記載がある。戦前の火保図では「日本インキ店」。



1987(昭和62)年12月31日

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西宮邸。台東区根岸3-7。1989(平成1)年3月19日

言問通りの鶯谷駅前交差点から1本東の横丁を北に入ると正面に西宮邸の木造洋館が見える。現在は写真手前の駐車場は塀で囲まれ、写真左の日本家屋の住居はマンションに替わったから、写真のような景観からはすっかり変わってしまった。洋館の部分だけが残されている。撮影時には日本家屋との比較で、同じ2階でも軒の高い洋館がずいぶんと大きく見えたものだ。
上の写真は合成してパノラマ写真風にしてみた。つなぎ目はまるで合っていなくて2枚の写真を横に並べただけだが、かつての景観がいくらかはイメージできると思う。


1991(平成3)年6月30日

『東京建築懐古録Ⅱ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年)に「陸奥宗光旧別邸」として載っている。以下、その記事による。
陸奥宗光は明治20年頃に三井家からこの洋館を献上された。階段の手すりの柱に陸奥の家紋であるボタンの花が彫られている。外相も勤めた陸奥はこの別邸に外国人外交官を招いてパーティを開いたという。2階が20畳の大広間である。陸奥が明治30年に亡くなると長谷川武次郎という実業家の手に渡る。現当主の祖父である。



1991(平成3)年6月30日。夏には庭木が茂って建物を隠した。現在は庭木も門もなくなっている。

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台東薬局。台東区根岸3-3。1991(平成3)年9月23日

言問通りから北へ入る細い道と、ウグイス荘(マンションに建替えられた)の横から来る道との交差点に立つ。写真右奥へ行くと、隣が小林邸でその先がNTTうぐいす荘、ウグイス荘アパートと続く。小林邸は大正期に建てられた屋敷だという。門だけでも撮っておけばよかった。手前の空地は若松湯という銭湯があった。


1989(平成1)年3月19日

言問通りから入る道から見た店の正面。撮影時には若松湯はまだあったのだろうか? あったのならば1枚くらい写真を撮っていそうに思えるが思い出せない。若松湯の隣が有名な鍵屋という居酒屋である。

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NTTうぐいす荘。台東区根岸3-3。1991(平成3)年6月30日(2枚とも)

ウグイス荘という洋風アパートがあったが、その角の玄関の横丁を入るとアパートの裏の駐車場の隣にあった。接近して同じ名称の建物があったわけだが、ウグイス荘のほうがうぐいす荘に引きずられて通称になってしまったような気がする。
NTTうぐいす荘は写真のように屋敷というか、とにかく立派な日本家屋だ。明治期には何人もの実業家が根岸に別邸を建てたというが、そういうことが直ちに思い浮かぶ。
『東京の町を読む』(陣内秀信・板倉文雄・他著、相模書房、S56)には「浅草の富豪・青地伊三郎の息子である青地多吉の屋敷」があった場所だという。青地から直にNTTのものになったのかどうかは分からない。


1枚目の写真は道路から撮っているから門柱が写っている。2枚目の写真は門を入って右を見たところ。ほんの数歩だが、断って敷地内に入ったわけではないからすぐ退出した。

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吉沢タクシーのガレージ。中央区大伝馬町2。1985(昭和60)年4月29日

江戸通りの小伝馬町交差点から南に入ったあたり。写真左手にいくと人形町通りへ出る。
写真のガレージは車が入っているようには思えず、倉庫にしているかもしれないが空家になっているようだ。建物は木造のガレージだから屋根をかぶせるだけのものだが正面上部の飾りがかなりこっている。中央上部に「OSIZAWA TAXI」と読める文字が残っている。どうも建物本体より飾りのほうに費用がかかっているのではないか。戦前は、車は高価だったろうからガレージを立派にみせるのは当然だったかもしれない。
戦前の火保図を見ると「吉沢タクシー」だった。看板は「Y」がなくなっていたのだ。

戦前のマッチラベル

戦前(ぼくは昭和初期から昭和10年頃と理解している)のタクシーは、東京市内が1円というのが基本で、近ければ運転手との交渉しだい、ということだったらしい。メーターをつけて交渉の手間を省いたタクシーもあったようだ。ぼくの親の世代は、半ば冗談にだが「円タク」という言葉をまだ使っていた。

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寺岡商事。中央区日本橋大伝馬町2。1985(昭和60)年4月29日(2枚とも)

写真左奥へ行くと江戸通りへ出る。写真右の利見商事のビルの先が銀杏堂と江戸屋で、この、江戸通りと並行する「大伝馬本町通り」が旧奥州街道の道筋であり、明治期には鉄道馬車が走ったという。
『日本近代建築総覧』に「寺岡ビル、S3~4、3階建て、施工:清水組、もと富士銀行系の銀行という」としている。2階建ての屋上にプレハブの家が乗っているような感じで3階建てにはみえない。
昭和7年の火保図には「三十六銀行東京支店」、昭和30年頃はすでに「KK寺岡商店、コンクリート3階建て」となっている。「ウィキペディア」には、第三十六銀行は1942年に日本昼夜銀行に買収され、1943年に安田銀行に合併された、とある。




写真左の家は宝輪社。バイク関係の店らしい。べったら市で有名な宝田恵比寿神社はすぐそばである。それにちなんだ店名だろうか。寺岡商事の向かいは東京フォトアート。

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江戸屋、銀杏堂(ぎんなんどう)印房
中央区大伝馬町2
上:1985(昭和60)年4月29日
左:1985(昭和60)年10月20日

昭和通りの小津本館ビルの横を東に入って人形町通りへぬける通りで、向かいには「ホテルギルモンド東京」がある。
江戸屋は1718(享保3)年創業の刷毛とブラシを製作販売する老舗である。歴史の古さと手作りする商品の確かさで有名だ。こういう店の品物を使っている人なら中流といってもいいと思う。
江戸屋の建物は今もそのまま使われている。ビル化して家賃を取らなくても自分の商売だけでやっていける、という自信が表れているように感じられる。

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