ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




カシムラ洋服店。千代田区一ツ橋2-5。1987(昭和62)年11月1日

岩波書店の裏の四つ角で、写真左後ろのビルは小学館だと思う。右奥へ行く道路の向かいは一ツ橋中学がある。正面の家は住宅地図では空白で空き家だろう。その左が「カシムラ洋服店」で、テーラーかもしれない。さらに左が「スター食品工業」。写真右端は「ばんぶー」。現在は跡地が駐車場になっているようだ。



八木工務店。一ツ橋2-6。1987(昭和62)年11月1日

雉橋通りの専修大前交差点の近くで、さくら通りの1本南の通りへ入る角である。角の家は飲食店、たぶん喫茶店だったような日よけがそのままになっている。建物の角の上の装飾が独特だ。

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岩波書店本館。千代田区一ツ橋2-5。1987(昭和62)年2月22日

岩波書店の本社ビルは白山通り沿いの小学館ビルと集英社神保町ビルの間を入ったところにある。写真のビルは1990年8月に解体された旧ビルで、現在は「岩波書店一ツ橋ビル」に建替えられた。
一橋大学の前身である東京高等商業学校の校舎だったものを1929年に岩波書店が手に入れたもの。三井家の寄進によるので「三井ホール」の名称もあったという。1916(大正5)年竣工、設計は遠藤於兎。鉄筋コンクリート造りの建物としてはごく初期のものだという。遠藤は1911(明治44)年に、横浜に三井物産ビルを完成させているが、これが日本最初の全鉄筋コンクリート造の建築ということになっている。
岩波書店のHPによると、3階に増築されたのは1958年5月で、そのとき屋上の手すりが失われた。



岩波書店。1987(昭和62)年1月4日


岩波書店
1987(昭和62)年2月22日

玄関上の看板だか扁額は夏目漱石の揮毫。漱石が死んだのは1916年12月だから、三井ホールが建った時にはたぶんまだ存命中だったろう。

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春原歯科医院。千代田区神保町3-9。1985(昭和60)年8月4日

すずらん通り・さくら通りの道筋が日本橋川に突き当たるすぐ手前である。春原(すのはら)歯科は大正15年の建築という。春原歯科と向かって右の神保町3丁目町会事務所の家は現在も変わらず、入口脇の看板を新しくして今も開業している。
写真左の銅板張り看板建築は「糊亀」の店。下の写真にある丸い看板が面白い。出桁造りの軒下に吊るすと似合いそうだ。1987年には店を閉じてしまった。『東京路上細見1』(林順信著、1987年平凡社刊)に閉店の挨拶の張り紙の文句を記録しているので、採録させてもらう。「御挨拶 江戸中期に先祖が尾張の国を出、神田お玉ヶ池のほとりに居を構え、以来二百有余年、代々神田で生計を営んでまいりましたが、此の度、都合により転居いたす事になりました。長い間の御愛顧御引立をありがとうごじました。皆々様の御繁栄をお祈りいたします。 六十二年二月 尾張屋 糊亀」。


左:糊亀。神田神保町3-9。1985(昭和60)年8月4日
右:三栄商会。神田神保町3-15。1987(昭和62)年1月4日

三栄商会は自動車の部品などを扱う会社らしい。雉橋通りから春原歯科のある通りに入ってすぐのところにあった。2軒長屋の形式の看板建築で、右側には「河合商店」の文字と「やまいち」という屋号の標章が残っている。建物上部の銅板を貼って作った模様がけっこう凝っている。飾り罫のような細工までしている。

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バラライカ。千代田区神田神保町1-63。左:1987(昭和62)年1月1日、右:1985(昭和60)年4月

ロシヤ料理のレストランである。ダン洋品店と同じく、千代田通り沿いにあったが神保町三井ビルの敷地になってしまった。1999年9月で閉店してしまったという。
空襲で焼失した区域になるようなので、建物は戦後のものだろう。厨房は2階にあったらしい。一度だけ入ったことがある。奥までずっと客席になっていたような覚えがある。ロシヤ民謡の実演はあったと思うがよく覚えていない。


文房堂倉庫
神田神保町1-41
1987(昭和62)年1月1日

千代田通りの1本西の裏通りにあった。写真右が住宅地図では「近江屋ソーコ」で、業種は分からないが近江屋の蔵だったのかも知れない。

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ダン(紳士洋品)。千代田区神田神保町1-43。1983(昭和58)年9月

駿河台下交差点から大通りを少し南に行ったところにあった。
3階の横の屋根(ほとんど壁に見えるが一応マンサール屋根)がうろこ状のスレート葺きで、ドーマー窓が突き出している。それによって洋館のように見えるが、正面2階のベランダの奥に見えているのは和風のガラス障子で、和室であることが分かる。
2階の庇の上には「原田商店」の文字がなんとか読める。角の柱の2階部分に「駿河台通」の表札が付いている。
ダンの右は「らいぶ居酒屋カラベラ小劇場」。
現在は2003年に竣工した神保町三井ビルの敷地になって、写真の横丁までも消滅した。



1986(昭和61)年6月1日

『下町残照』(村岡秀男著、1988年・朝日新聞社刊)にダンのご主人(明治38年生まれ)の談話が記録されている。それによると、建物は昭和3年に加藤辰五郎という大工が建てたもので、3階の屋根は消防署の指導で3階までの通し柱を切ってマンサールにした、という。昔は足袋屋で、関東大震災直後に建てたバラックの家の写真には、「川嶋屋足袋店・原田商店」の看板を挙げている。

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蔵前橋通りの裏。台東区浅草橋5-28。2005(平成17)年4月8日

蔵前橋通りのすぐ南の裏通りで、写真右の横山ビルの西側の並び。横山ビルは当ブログ前回の2・3枚目の写真の左に写っているビルで、裏通りのこのブロックでビルになったただ1棟のビルである。その左の茶色のタイル張りの家が鞄金具の高橋製作所。



村義紙業。台東区浅草橋5-17。1987(昭和62)年頃

写真右の小さく写っている家が蔵前橋通りに面している。左手前の家が村義紙業。水色の看板建築の家は菅井電気工業所。銅板張りの二軒長屋が2棟くっついているのか、あるいは四軒長屋だかの家は2005年くらいまで残っていた。

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シバザキ眼鏡店、中川商店、亥来堂。台東区浅草橋5-28。2005(平成17)年4月8日(3枚とも)

今回の写真はごく最近のもの。
写真の家並みは蔵前橋通りの鳥越二丁目交差点を南に入ったところ。写真右の名刺・ゴム印の亥来堂(いらいどう)は蔵前橋通りに面している。写真の並びの斜め向かいに浅草消防署浅草橋出張所がある。中川商店は看板に「ビニールレザー及び附材料」とかいてあるが帽子の付属品なども扱う店。



シバザキ眼鏡店の横は蔵前橋通りの裏通りになるが、古い家が並んで残っている。



丸友商会(中央)も中川商店と同じく帽子に関係した会社らしい。1階をガレージにしてしまっている家が多い。

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東京三商
台東区浅草橋5-1
1987(昭和62)年頃

都立忍岡高校の北側を通る通りと、南に行って神田川の左衛門橋を渡る通りとの交差点が忍岡高校入口交差点で、東京三商の建物はその角にあった。
モルタルで洋風の外観にした木造3階建ての建物だろう。アルミサッシに変えられていない窓は上下に上げ下げする方式の窓のようだ。

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東京小間紙製造所。台東区浅草橋5-17。1987(昭和62)年頃

蔵前橋通りの南に、昭和通りから江戸通りに抜ける通りがある。当ブログでこの通り沿いの建物は何件か紹介しているが、東京小間紙製造所はこの通りの都立忍岡高校の向かいにあった。
小間紙(こまがみ)というのは辞書によると、「趣味や装飾用に加工した紙のことで、千代紙・折り紙・包み紙・祝儀・儀式用の紙など」。和紙と決まったものでもないらしい。小間紙製造所という名前から、紙を印刷して包装用紙や千代紙などを製造していたものかと思う。



東京小間紙製造所。1988(昭和63)年12月31日

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月の屋の長屋。台東区台東3-23。1989(平成1)年2月12日

当ブログ前回の台東製作所の少し南の向かい。5軒長屋である。写真からは、「花輪・葬祭」の小柳商店、「季節料理・やき鳥」の「月の家」、「ナショナル蛍光灯」の看板の電気店、「森永牛乳」販売所が認められる。



2003(平成15)年10月23日

この写真では軒並み、商店の看板が外されているが、建物は現在もこの状態で残っている。このブロックで1棟のビルを建てる計画があるのかもしれない。この辺りは20年前に見た古い木造の家がまだ意外と多く残っている。商売は畳んでしまった家が多く、空き家になっている家もあるようだが。

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