ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大阪屋酒店。文京区湯島3-33。1989(平成1)年頃

昌平橋通りの天神下交差点のすぐ南で、大通り沿いだが銅版張りの看板建築が並んでいる。写真左から、水車(割烹)、大阪屋酒店倉庫、大阪屋酒店店舗。写真右端が味噌漬けで有名な「よろずや」という魚屋。



木造民家。湯島3-34。1989(平成1)年1月29日

昌平橋通りからよろずやと大阪屋の間を入ったところ。よろずやの建物とその裏の3軒長屋かと思われる民家は健在で、今でも同じ写真を撮ることができる。

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丸新青果店。中央区新富1-6。1990(平成2)年5月6日

当ブログ前回の佐藤理髪店の写真の右に写っている3軒。写真左のマンションは佐藤理髪店と宮堅医院の所に建った「ロイヤルプラザ新富町」。
3軒とも細かく見れば異なるファザードだが共通したデザインである。家主が同じなのかもしれない。角の柱をタイル張りに、モルタルの壁面に色をつけている。微妙な色なので写真では正確な色調は表現できていない。壁面の模様が3軒、それぞれが異なる。川島産業は壁面には模様は入れず柱などの枠で囲ったもの、森永牛乳販売店は横縞模様、丸新青果は市松模様だ。川島産業と丸新青果は昭和25年頃の地図にすでに載っている。



丸新青果店。1985(昭和60)年4月14日

丸新青果の横とその隣の「新光貨物新富倉庫」が写っている写真。半逆光で建物前面の露出が合っていないようで、この写真も色合いがおかしいし、壁面の模様もはっきりしない。
ここは戦前の地図では「新富演芸場」となっている一角である。「Web新富座」の第99回に、竹田組のことに関して『中央区の昔を語る 第8集-小舟町/新富-』の記事が紹介されている。それによると、『新富演芸場は竹田組の社長・竹田源治郎さんが奇術が大好きで演芸場をつくった』と元町内会長が発言されている。
新富演芸場が竹田組の持ち物だったとすると、写真の建物は竹田土地建物の家作という可能性もありそうだ。


川島産業
1987(昭和62)年5月3日

この建物が(たぶん川島産業という会社も)今も健在である。家の住民には男の子もいるようで、かわいいこいのぼりが出ている。そういえば、この頃には我が家にも同じような小さいこいのぼりをどこかからもらって、2階のベランダの隅に揚げておいた。

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佐藤理髪店。中央区新富1-6。1982(昭和57)年

新富町は空襲での焼失を免れているので、バブルの前には戦前の木造の建物もかなりの数が残っていた。有名なのは植村邸の銅版の看板建築で、江戸東京たてもの園に移されて今でも見ることができる。佐藤理髪店は『建築探偵の冒険』(藤森照信著、筑摩書房、1986年刊)や、『乱歩と東京』(松山巖著、PARCO出版局、1984年刊)が、豪華な店内の写真を載せているので、けっこう知られていたのではないかと思う。

場所は新富橋から新大橋通りに出る新富町のメーンストリートの新富橋の近くにあった。「森永牛乳」の左の家が今でも健在である。その右は宮堅医院だった家。
佐藤理髪店の建物で目を引くのは2階壁面の縞模様である。床屋だから赤青白に塗り分けて建物全体を看板にしてしまったとも考えられる。年月を経て写真のように退色したのかも知れない。しかしそんなものすごい建物では内部の造作と合わない。床屋の右に続く4軒の建物もカラーリングを施しているが、色調に統一がとれている。まるでテーマパークの町のようにも見えてくるが、実際にあった街並みなのだ。以前にトミー・リーアル・アドバイザーを掲載したが、そのファサードのデザインが佐藤理髪店と同じである。どうも町ぐるみでなにかたくらんだ気配がしないだろうか?

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中之橋。中央区新富1-13。1985(昭和60)年9月8日

新大橋通りの、桜川に架けられていた橋。大震災後に新大橋通りを新たに通したときに造られたもの。
川の埋立ては、中之橋の西側が昭和38年12月から41年9月に、公園などになっている東側が昭和44年1月から47年3月の工事による。橋の西側には、いつの建築か知らないが写真にある勤労福祉会館が建った。川がなくなっても橋そのものはけっこう長く残っていた。道路を支える構造物として機能していたのかもしれない。橋が撤去されたのは平成8年らしい。



松下医院。中央区新富1-12。1988(昭和63)年2月21日

新金橋の通りで、写真左手が銀座1丁目、右手が新大橋通りを越えると南高橋から新川の方向。この家並みの裏に第二帝興ビルがある。
今はビルに変わっているのかもしれないが、この写真は建物よりも歩道を撮ったものだ。車道との間の段がしだいに増えて3段になってしまう。「トマソン」ということで何かの本にあったので、「あ、これか!」と思って写しておいた。

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第二帝興ビル。中央区新富1-12。1985(昭和60)年11月10日

現在の平成通りはかつての電車通りで、桜川に桜橋が架かっていた。桜川というのは江戸期の八丁堀のことで、楓川と合流するところから西は京橋川となるらしい。勿論、川も橋もとっくの昔になくなっている。現在は桜橋というと隅田川の歩道橋のほうが有名だが、平成通りと鍛冶橋通りの交差点は桜橋交差点で、そこに都電の桜橋停留所があった。そのせいか、バス停は「桜橋」だ。今でもタクシーで「京橋の桜橋」が通用するだろうか?
第二帝興ビルは平成通りから少し横に入るが、桜橋のたもとといっていい場所にあった。1925(大正15)年竣工、設計は佐藤功一、施工は清水組である。2002年に解体されて、現在はTDB新富ビルに変わった。
このビルには竣工時からだと思うが、帝国興信所という会社が入っていた。現在の帝国データバンクである。「Web新富座」の第82-84回で帝国データバンクを取り上げている。『情報の世紀 帝国データバンク創業100年史』(2000年6月刊)を基に、会社の沿革や、結婚調査のことなどがおもしろくまとめられている。
山本周五郎が大正15年、この「帝国興信所ビル」にあった「日本魂社」に入社して『日本魂』の記者になった、という記述が『人と文学シリーズ 山本周五郎』(昭和55年、学習研究社刊)に出てくる。ビルの写真も載っていて、それを見るとビルの西側の壁に「帝國興信所/全世界調査機関」の文字を取り付けている。山本周五郎は新築なったこのビルに出入りしていたのだろうか。



第二帝興ビル。1986(昭和61)年9月7日

写真手前はビルが取り壊された跡だが、震災前は桜川に面した南桜河岸といった河岸地。勤労福祉会館の駐車場から撮ったもの。勤労福祉会館は解体されているが、跡地はどうするつもりなのだろう?
スクラッチタイルの壁面に1階の連続アーチというクラシックな外観を白く塗りつぶしている。古いビルが見直されてきたせいか、解体前にはタイルの壁面が濃い茶色に塗りなおされていた。
1・2枚目の写真は建物上部や右側が写っていない。もっといい写真を載せているサイトを紹介しておく。
Site Y.M.建築・都市徘徊>失われた近代建築in Tokyo
廃景録>消えた近代建築


第二帝興ビルの裏側
1988(昭和63)年2月14日

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中央区立明正(めいしょう)小学校・北側の角。中央区新川2-13。1986(昭和61)年6月8日

写真左の道路が新亀島橋からの通りで新川1丁目と2丁目の境になる。



明正小学校・西側の角。1986(昭和61)年6月8日

区立明正小のHPによると、昭和2年3月、霊岸島尋常小学校と越前掘尋常小学校が合併して創立した。大震災後に、この校舎を建てて2校を収容したのだろう。昭和20年3月10日の空襲で講堂を残して全焼し、生徒は八丁堀の京華小に転入している。戦後に再度開校するのは昭和26年9月だ。
昭和20年代の火保図では「明正アパート」の名称になっていて、校庭には5軒の家さえ建っている。学校の北側に隣接する越前掘児童公園にも20戸の家があり「都営住宅」となっている。戦後の住宅政策だろう。



明正小学校。1987(昭和62)年11月20日

現在は新川1・2丁目が通学区域で、昔から変わっていないようだ。統廃合が進む中央区では珍しく、親が学んだ校舎に子供もが通う、ということが実現しているらしい。2007年の児童は136名。

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旧川崎第百銀行。中央区新川1-3。1986(昭和61)年1月19日

信号の「新川一丁目」交差点は永代通りと箱崎町の湊橋の通りとの交差点。写真右手が茅場町の方向。
戦前の火保図に「川崎第百銀行支店」となっている建物。小さいビルだが見るからに銀行建築と分かる古典様式の外観の建物だ。撮影時は神林印刷倉庫。
ウィキペディアによると、第百銀行は1878(明治11)年創立の第百国立銀行が始まりで、1927(昭和2)年に川崎銀行と合併して川崎第百銀行となる。1936(昭和11)年に第百銀行と改称。1943年に三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に吸収合併された。というのがおおよその経過である。
たぶん三菱銀行に合併された時点で新川の支店は閉鎖されたのだろう。戦後の火保図では「東京洋品衣料KK」。なお、永代通りの永代橋よりに三菱銀行永代橋支店(新川中埜ビル)があった。


旧川崎第百銀行の正面上部
1986(昭和61)年6月8日

追記(2016.05.28)
『日本近代建築総覧』に「松和産業K.K.、新川1-3、建築年=大正11年頃、構造=RC2階建、備考=葉書による回答。旧川崎第百銀行支店と云う」で記載されている。1969年の住宅地図では「日軽ビル(高橋)」。

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佐が和(てんぷら)。中央区新富1-5。1987(昭和62)年5月3日

当ブログ前回の「四軒長屋」の裏側である。写っている和風の民家は、写真左の2軒がまだあると思う。写真左端の家は表の引き戸に「おおつか忠彦道場/剛柔流空手道・健康太極拳指南」「剛柔拳舎砕心館」と書かれている。


新和興業
新富1-5
1990(平成2)年5月6日

1枚目の写真の右奥の部分。写真左は「マッキーズ・クリーク」という釣具屋。電柱の看板に「ロッドビルディング専門店」とある。『フライの雑誌第59号』の記事を紹介したサイトにこちらのご主人が対談で話された内容が載っていた。それによると、店主の宮坂氏は湯島で生まれ、新富町の東の湊町で育つ。氏が小学二年生の頃、建物疎開で湊町の家が取り壊しになり、新富町に移ったという。
写真中央が水道工事の新和興業、その右は住宅地図ではすでに空白で、日よけの文字から食品の卸か小売店だったらしい。

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四軒長屋。中央区新富1-5。1982(昭和57)年

当ブログ前回の復興稲荷の向かいにあった。長屋の左端の家の造作が原型のままかもしれない。こういういかにも長屋という建物は新富町ではあまり見ないが、何軒かは建てられたのだろう。



四軒長屋。1987(昭和62)年5月

長屋の右端の家が「ひまわり印・プラスチック製品/東和化成」から「フジタ工業」に変わっている。



井上電材。新富1-5。1990(平成2)年5月6日

新富橋の通りで新富橋のすぐ近く。しもた屋風の家が並んでいた。写真右の家は住宅地図で「井上電材/文弘社」。見たところ右の家以外は戦後の建築のようだ。

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新富橋と竹田ビル。中央区新富1-4。1987(昭和62)年12月6日

住宅地図には「日鉄工機/竹田土地建物」という社名で記載されているが、昭和25年頃の火保図に「竹田ビル」とあるので、ここではその名称を採用した。「歴史的建築総目録DB」に『日鉄工業K.K.、昭和2年、木造2、設計・施工=竹田組』としている建物ではないかと思うが、木造にはちょっと見えない。
建築業の竹田組の事務所として建てられたようだ。「Web新富座」の第99回の記事に『(旧回効散ビルの) 建築工事を請け負ったのが地元新富の有力企業の一つである竹田土地建物の前身、(株)竹田組であることがわかりました。』とあり、竹田組が手がけた工事も何件か紹介している。
竹田ビルの左後ろに日本家屋の屋根が見えている。昭和25年の地図に「旅館・升田」となっている建物らしい。邸宅の建物が一時期、旅館になったのかもしれない。



竹田ビル。1985(昭和60)年4月14日



復興稲荷。1991(平成3)年4月21日

写真中央の洋風の家は竹田組の倉庫。鳥居が復興稲荷で、やはり「Web新富座」に『中央区の昔を語る 第8集-小舟町/新富』の記事が紹介されている。
写真右の日本家屋は戦前の地図では「待合」となっている。その建物だろうか。写真右端の空地は同じ地図で「待合・清豊園」、戦後の地図で「料理屋・清豊園」があった場所。


新富橋から東の方を見る
1982(昭和57)年

写真右の通りが新富町のメーンストリートで、撮影時には通り沿いの建物の半ばが戦前建築のものだったのではないだろうか。写真右奥の裏側を見せているビルが喜久屋(旧回効散ビル)。

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