ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




千代田ハイツ。墨田区両国1-12。1988(昭和63)年2月21日(4枚とも)

京葉道路の両国橋東詰めに建っていた。写真左の首都高の下は隅田川だ。写真からもビル本体の傷みがかなり進んでいるのが分る。煙突とベランダのある南側の壁はタイル張りだが、東側はタイルをはがしてしまっている。
1935(昭和10)年の建設。


玄関のある側だから表側になるのだろうか

玄関左に木の、住所と「千代田ハイツ」と書かれた表札が懸かっている。

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網中産業。江東区佐賀1-12。2002(平成14)年12月30日

讃岐食品、他/佐賀1の1枚目写真の通りをもう少し隅田川大橋の方向へ行ったところ。写真の建物は今も見られる。



洋風ファサードの家。江東区佐賀1-12。1989(平成1)4月30日
右の建物には社名を書いたらしい木の表札があるが、左の建物はしもた屋のようだ。


網中産業
1989(平成1)4月30日

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平屋の事務所。江東区佐賀1-15。1989(昭和64)年1月3日

村林ビルの近くで、現在も残っている。写真では読み取れないが板の会社名を書いたらしい表札がかかっている。2002年撮影の写真では外されていた。事務所として住居の前面に建てられたものと思うが倉庫だったかもしれない。



平屋の事務所。1989(平成1)年4月30日


食糧ビルのはす向かい。江東区佐賀1-9。1989(昭和64)年1月3日

上段写真の角の家
1989(平成1)年4月30日

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隅田川沿いの通り。江東区佐賀1-11。1989(昭和64)年1月3日

中央区新川から永代橋を渡ってすぐ左折した通り。
江東区は空襲で大部分が消失したようだが、なぜか佐賀町とそれに隣接する福住町の一部は焼け残った。隅田川と仙台堀川や大島川などが延焼を防いだのだろう。



洋風ファサードの家。佐賀1-11。1989(平成1)年4月30日


讃岐食品
佐賀1-1
1989(平成1)年4月30日

1枚目の写真の通りの隅田川側。モルタルで石張り風に見せたものだろうか。けっこう立派に見える。1階の窓が塞がれてしまっている。配送の中継地か運搬容器の倉庫として使われてるようだ。
建物は現在も残っているが、出入り口を左へ伸ばしてシャッターを取り付けてしまった。ソテツの木も失われたままだ。

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村林ビル。江東区佐賀1-8。1989(平成1)4月30日

食料ビルがあった頃は佐賀町の二大近代建築といった感じの、割と有名なビルで、今も残っている。外見からは改装などはまったくされていないように見える。あるいは各窓もテラコッタで縁取られていただろうか。
撮影時は正面に「和光堂製本」、横の入口に「芸術劇場」の表札がかかっている。
『東京懐古録Ⅱ』(読売新聞編、1991年、読売新聞社発行)によると、「村林商店」という配給飼料と化学肥料の製造販売の会社のビルとして建ったもの。大林組の設計施工らしい。


左:村林ビル正面玄関。1989(昭和64)年1月3日
右:村林ビル裏側。2002(平成14)年12月30日

玄関上部のテラコッタの飾りが目を引く。六芒星の紋章の両側にグリフォンを配した模様だが、なにか意味をこめたものだろうか? たぶん西洋的ムードを出すのが狙いだろうと思うが。

追記:2007.05.11
東村山のヨウタロウ氏からコメントを頂いた。それによると、このビルは関根要太郎の設計になるという。多摩の桜ヶ丘公園にある聖跡記念館の設計者である。
また、当ブログの兜橋ビル、藍沢ビル/日本橋1の兜橋ビルが関根要太郎の設計であるともご教示いたただいた。

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食糧ビル(南と西側)。江東区佐賀1-8。2000(平成12)2月9日

現在は江東区佐賀だが旧住居は深川佐賀町。深川はとにかく「町」くらいは残してくれないと収まりが悪いと思うのだが。近代建築で佐賀町といえば食糧ビルで、解体が始まったのは2002(平成14)年末だから、ついこの間まであったような気がする。
以下、『東京建築懐古録』(読売新聞編、1988年読売新聞社発行)を参考にする。
ビルは1927(昭和2)年、関東大震災で消失した東京回米問屋市場として建てられた。設計は渡辺建築事務所の渡辺虎一。当時、佐賀町は米の集積地だった。1941(昭和16)年、統制経済によって食料営団の管理となる。1951(昭和26)年、江東食糧販売協同組合の所有になり、組合の事務所と貸しビルになっていた。



食糧ビル(北側の入口から南側を見る)。1988(昭和63)12月18日



食糧ビル(南側から北側を見る)。2000(平成12)2月9日



食糧ビル(西側)。2000(平成12)2月9日
ビルは立ち入り禁止になって、テナントが撤収作業をしていた。知らん顔して入り込んだがすぐ追い出された。


食糧ビル(北側)
1989(昭和64)1月3日

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飯野医院。中央区築地6-2。1987(昭和62)年5月24日

築地にあった洋館はやはり医院だった。撮影時にはすでに廃業しているようだ。飯野医院の後ろは「入船湯、他/築地6丁目」の「入船湯のある裏通り」の写真の長屋。
2階の窓はアルミサッシに変えられているが1階のほうは元のままかもしれない。



飯野医院の前の通り。1988(昭和63)年10月9日

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入船湯のある裏通り。中央区築地6-2。1987(昭和62)年5月24日

写真左の道路に張り出している木が入船湯のもの。突き当たりは丁字路で、左端の白い壁の家は「ダルマ薬局、他/築地6」の2枚目の写真に写っている。赤い袖看板の新保商店から右が2番地になり、看板建築の長屋が並んでいる。このあたりは現在も変わっていない。



入船湯。築地6-3。1991(平成3)年5月5日

建設会社が使っているようだ。昭和61年の住宅地図でも、すでに銭湯ではなくなっている。
中央区入船は築地の北にある明石町のさらに北にある。また築地6丁目の旧町名は小田原町2丁目。大正期でも南小田原町1丁目で入舟町とは離れている。明治17年の地図に現在の明石町、聖路加病院のところが入舟町8丁目となっていて、これなら隣町になる。あるいは町名とは無関係な命名かもしれない。


魚秀商店
築地6-5
1987(昭和62)年5月24日

写真左が築地6・7丁目のメインストーリートに出る角。

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