ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




岩代稲荷神社。中央区日本橋堀留町1-7。1994(平成6)年2月20日

人形町交差点から人形町通りを北へいって、2本目の横町を西へ入ると堀留公園があるが、その中間あたりにあった稲荷神社。関東大震災後、1932年の町名変更までは「岩代町」といったところなので「岩代稲荷神社」である。
この神社は、今は移動して「出世稲荷神社」に合祀されたことは『堀口商店』で述べた。岩代稲荷の由来や移転の時期、経緯は、ネットでは調べられなかった。
『改訂「江戸之下町復元図」』(『中央区沿革図集』に収録)に、岩代町の南の横町(岩代稲荷の前の道)に「楽屋新道」とあり、「人形丁(通り)」を超えると「三光新道」になる。江戸期には楽屋新道の南に接して、堺町の中村座、葦屋町の村山座(市村座)があり、その関連での名称なのだろう。
『東京路上細見2』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)に、岩代稲荷について述べている個所があるので紹介する。

(がくや新道を人形通りの方へ進んで)「柴田商店」を過ぎてすぐ左手角に、岩代稲荷神社がある。間口二間ほどのこぢんまりしたつくりだが、千社札を納めるのにはちょうどよい稲荷社である。私の千社札も右手のお水舎の軒下にある。がくや新道の北側、この稲荷のあるところは、昔、岩代町といった。明治になってからは珍しく一番地だけしかない小さな町だった。今、岩代の名を残すのはこの稲荷だけである。



岩代稲荷神社。左:1987(昭和62)年4月5日、右:1996(平成8)年5月6日

「新田建設」の字が掘られた玉垣がある。新田新作は戦後、明治座を復興して社長になり、力道山を後援した人として有名だ。新田建設を創業したのは戦後で、明治座を建てるためだったかもしれない。写真の社は戦後の建立なのだろうか?
昭和22年の航空写真を見ると、楽屋新道の北側は建物疎開になったように見える。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 喫茶アッセ/... 岩代稲荷神社... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。