昨日は、○十年ぶりの高校の同窓会があったので、出張の間隙を縫って大阪へ帰省した。
受付で名札をもらって会場に入ったが、正直顔だけじゃなかなか分からない。
しかし、一言話した瞬間に「オー、△△か」という感じで、○十年の時はあっという間に埋まる。
総じて男は齢相応のオジサンになっていたが、女性の方は、高校時代からまったく変わらない印象の子もいて驚いた。(これって、ちょっとズルいぜ!)
恩師もお元気そうで(まだ現役だと聞いて二度びっくり)、本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。
同窓会って、やっぱりいいもんです。
さて、今日は久しぶりにカザルスの「鳥の歌」を聴いた。
もう多くの人に語り尽くされた演奏だけど、「音楽の力、音楽によるメッセージ」ということを強く思い知らされる、永遠の名演奏だと思う。
私がこの曲を初めて聴いたのは、高校生の時。
きっかけは、1冊の本だった。
ギターの師匠から、「何も言わないから、この本、最後まで読んでみなさい。とくにカザルスの鳥の歌の箇所はじっくり読みなさい」と言われて、一冊のぼろぼろになった本を渡された。
それが、鈴木鎮一さんの名著「音楽的表現法」(上巻)だった。
この本の下巻があるのかどうかもよく知らないが、当時高校生だった私は、この本をそれこそ貪りつくように何度も何度も読んだ。
そして、速く格好よく弾くことだけに夢中になっていた私を、この本が一喝してくれた。
「そうか、演奏するということは音楽することなんだ。音楽するということは、心で表現することなんだ」と思い知らされる。
そして、文字だけでは飽き足らず、どうしても音として聴いてみたくなり、師匠に無理を言ってレコードをお借りし何回も聴いた。
果たしてその演奏は、文字からイメージしていたものよりも遥かに凄かった。
そのとき聴いたのはオーケストラ伴奏の演奏だったが、カザルスの鳥の歌には、もう1枚、1961年にホワイトハウスで弾いたホルショフスキのピアノ伴奏による録音も残されている。
いずれも歴史に残る名演奏だけど、強いて言うと、音楽の豊かさではオーケストラ伴奏版が、音楽の訴えかける強さではピアノ伴奏版が勝っているように思う。
また、ホワイトハウスコンサートの録音には、何とも感動的なカザルスの唸り声が随所に聴かれる。
その唸り声の箇所を注意深く聴くことによって、音楽の表現法の秘密の一端を垣間見ることができたような気がする。
その意味でも、私にとって、文字通り、かけがえのない本であり、かけがえのない演奏だ。
(参考)
鈴木鎮一
「音楽表現法」(上巻)全音楽譜出版社
1957年
「フレーズの問題について、カザルスの演奏によるカタロニア民謡の「小鳥の歌」ほど、音の空間を大きく表現している演奏を私は未だかつて聞いたことがない。それは何と素晴らしい空間の表現であろうか、本当に素晴らしい。
拍子の間の名人・・・それは音楽表現の名人であり演奏の名人でもある。心ある人はコロンビアのカザルスのLPレコード、シューマンのセロ協奏曲の裏面にあるこの小品を聞いて見られるがよい、実に立派である。(中略)
楽譜をみて、深い検討もしないで譜の玉を無造作に弾きまくる無知な私共にとっては、なんと大きな反省を与える名演奏であろう。是非とも、一度この譜面を検討し、その表現能力を試していただきたい。ゆっくりとした静かな又情熱に溢れた曲である。
音楽の表現とは何ぞや、ということを改めて深く考えさせられる動機となる幸運に恵まれるかもしれない。
私は、カザルスの演奏から実に多くの尊いものを教えられ又与えられたのである。」
★カザルス/鳥の歌-ホワイトハウス・コンサート
■メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番ニ短調 作品49
■クープラン:チェロとピアノのための演奏会用小品
■シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70
■カタロニア民謡(カザルス編):鳥の歌
<演奏>
■パブロ・カザルス(チェロ)
■ミエチスラフ・ホルショフスキー(ピアノ)
■アレクサンダー・シュナイダー(ヴァイオリン)
<録音>1961年 ワシントンDC(モノラル録音、ライヴ)
受付で名札をもらって会場に入ったが、正直顔だけじゃなかなか分からない。
しかし、一言話した瞬間に「オー、△△か」という感じで、○十年の時はあっという間に埋まる。
総じて男は齢相応のオジサンになっていたが、女性の方は、高校時代からまったく変わらない印象の子もいて驚いた。(これって、ちょっとズルいぜ!)
恩師もお元気そうで(まだ現役だと聞いて二度びっくり)、本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。
同窓会って、やっぱりいいもんです。
さて、今日は久しぶりにカザルスの「鳥の歌」を聴いた。
もう多くの人に語り尽くされた演奏だけど、「音楽の力、音楽によるメッセージ」ということを強く思い知らされる、永遠の名演奏だと思う。
私がこの曲を初めて聴いたのは、高校生の時。
きっかけは、1冊の本だった。
ギターの師匠から、「何も言わないから、この本、最後まで読んでみなさい。とくにカザルスの鳥の歌の箇所はじっくり読みなさい」と言われて、一冊のぼろぼろになった本を渡された。
それが、鈴木鎮一さんの名著「音楽的表現法」(上巻)だった。
この本の下巻があるのかどうかもよく知らないが、当時高校生だった私は、この本をそれこそ貪りつくように何度も何度も読んだ。
そして、速く格好よく弾くことだけに夢中になっていた私を、この本が一喝してくれた。
「そうか、演奏するということは音楽することなんだ。音楽するということは、心で表現することなんだ」と思い知らされる。
そして、文字だけでは飽き足らず、どうしても音として聴いてみたくなり、師匠に無理を言ってレコードをお借りし何回も聴いた。
果たしてその演奏は、文字からイメージしていたものよりも遥かに凄かった。
そのとき聴いたのはオーケストラ伴奏の演奏だったが、カザルスの鳥の歌には、もう1枚、1961年にホワイトハウスで弾いたホルショフスキのピアノ伴奏による録音も残されている。
いずれも歴史に残る名演奏だけど、強いて言うと、音楽の豊かさではオーケストラ伴奏版が、音楽の訴えかける強さではピアノ伴奏版が勝っているように思う。
また、ホワイトハウスコンサートの録音には、何とも感動的なカザルスの唸り声が随所に聴かれる。
その唸り声の箇所を注意深く聴くことによって、音楽の表現法の秘密の一端を垣間見ることができたような気がする。
その意味でも、私にとって、文字通り、かけがえのない本であり、かけがえのない演奏だ。
(参考)
鈴木鎮一
「音楽表現法」(上巻)全音楽譜出版社
1957年
「フレーズの問題について、カザルスの演奏によるカタロニア民謡の「小鳥の歌」ほど、音の空間を大きく表現している演奏を私は未だかつて聞いたことがない。それは何と素晴らしい空間の表現であろうか、本当に素晴らしい。
拍子の間の名人・・・それは音楽表現の名人であり演奏の名人でもある。心ある人はコロンビアのカザルスのLPレコード、シューマンのセロ協奏曲の裏面にあるこの小品を聞いて見られるがよい、実に立派である。(中略)
楽譜をみて、深い検討もしないで譜の玉を無造作に弾きまくる無知な私共にとっては、なんと大きな反省を与える名演奏であろう。是非とも、一度この譜面を検討し、その表現能力を試していただきたい。ゆっくりとした静かな又情熱に溢れた曲である。
音楽の表現とは何ぞや、ということを改めて深く考えさせられる動機となる幸運に恵まれるかもしれない。
私は、カザルスの演奏から実に多くの尊いものを教えられ又与えられたのである。」
★カザルス/鳥の歌-ホワイトハウス・コンサート
■メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番ニ短調 作品49
■クープラン:チェロとピアノのための演奏会用小品
■シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70
■カタロニア民謡(カザルス編):鳥の歌
<演奏>
■パブロ・カザルス(チェロ)
■ミエチスラフ・ホルショフスキー(ピアノ)
■アレクサンダー・シュナイダー(ヴァイオリン)
<録音>1961年 ワシントンDC(モノラル録音、ライヴ)
カザルスの「鳥の歌」は、私も2種のレコード(CD)で愛聴してきました。「愛聴」と言っても、聴く頻度は多くないのですが、やはり、時々は取り出して聴くべき音楽だと思っています。
そして、聴きながらいつも思うのは、中学生の時にテレビで観た国連でのコンサートです。
あれには本当に感動させられました。
自作の国連賛歌とかバッハのコンチェルト、そして何より、例のスピーチと、その後に弾かれた「鳥の歌」です。
亡くなる少し前だったと思います。
チェロの音は、当時の私でも分かる「外れ」などありましたが、それでも、音楽の大切なものは全てつまっているような演奏でした。
ホワイトハウスでの演奏やモノラルのオーケストラ伴奏版を聴く時も、どこかであの放送時の「音楽」を重ねて聴いてしまう私です。
素敵なコメントありがとうございました。
カザルス=鳥の歌のような印象は、本当はよくないのかもしれませんが、我々の世代ではやむを得ないですよね。
カザルスという人間そのものが、たまたまチェロという楽器を介して音となって我々と対峙している、そんな気持ちを聞くたびに感じます。
元々クリスマスの音楽だそうですが、カザルスの手にかかると、メッセージの強さ・存在感に圧倒されます。そして映像でみると、ますますその力が増幅されるように感じます。
仕事でも何でもそうですが、やはり最後は人間そのものなんですね。