ETUDE

~美味しいお酒、香り高い珈琲、そして何よりも素敵な音楽。
これが、私(romani)の三種の神器です。~

パトリシア・プティボン ソプラノ・リサイタル

2008-04-15 | コンサートの感想
「新しいディーヴァの誕生!」
先週土曜日にプティボンのコンサートを聴いて、まっさきに感じたことです。
すでに、世界中でひっぱりだこの歌手である彼女に対して、いまさら「ディーヴァの誕生」はないだろうと仰る向きもあるかもしれませんが、それほど魅力的なステージでした。

<日時>2008年4月12日(土)18:00~
<会場> 東京オペラシティ コンサートホール
<演奏>
■パトリシア・プティボン(ソプラノ)
■マチェイ・ピクルスキ(ピアノ)
<曲目>
■R・アーン
〈クロリスに〉
〈懐疑の人〉
〈葡萄摘みの3日間〉
〈彼女の館のとりこになったとき〉
■A・コープランド
 歌曲集《アメリカの古い歌》第2集より 
〈シオンの壁〉
〈小さな馬たち〉
〈チンガリン・チョウ〉
〈河にて〉
■M・ロザンタール
〈フィド、フィド〉
〈動物園の年寄りラクダ〉
■S・バーバー 
〈この輝ける夜に、きっと〉
■アメリカ民謡
〈私の愛しい人は黒髪〉
■F・プーランク
〈ヴィオロン〉
〈愛の小径〉

・・・休 憩・・・

■H・コレ
<ラバ引きたちの人生〉
■F・オブラドルス
〈花嫁はおちびさん〉
■J・トゥリーナ
〈あなたの青い眼〉
■M・デ・ファリャ
 歌曲集《7つのスペイン民謡》より
〈ムーア人の布地〉
〈子守唄〉
■W・A・モーツァルト
 歌劇《フィガロの結婚》第4幕より
 バルバリーナのカヴァティーナ〈失くしてしまったの〉
 スザンナのアリア〈早くおいで、美しい歓びよ〉
■E・サティ
〈ブロンズの彫像〉
〈ダフェネオ〉
■I・アブルケル
〈愛してる〉

《アンコール》
■日本古謡:さくらさくら
■オッフェンバック:「ホフマン物語」より
 「森の小鳥は憧れを歌う」(オランピアのアリア)
■カントルーブ:オーベルニュの歌より
 「羊飼いの娘よ、僕を愛してるなら」
■ファリャ:アストゥリアーナ
■アブルケル:愛してる(途中まで)


話は少し横道にそれますが、私にとっての永遠のマドンナは、誰がなんと言おうとエディット・マティス。
しかし、もはやステージでマティスの歌を聴くことができなくなった現在、私のポスト マティスはナタリー・デセイです。
そして、プティボンは、そのナタリーの妹分的な存在といえるでしょう。
プティボンのことを最初に教えてくださったのは、この日もご一緒させていただいたyokochanさんでした。
一昨年のモーツァルト生誕250年にザルツブルクで歌ったガラコンサートの印象があまりに鮮烈だったせいか、プティボンというと、その容姿も歌唱も、透明で繊細でガラス細工のような先入観に近いイメージを持っていました。
ところが、ステージに登場したプティボンを観て、まずどきり。
まあ、何と美しいこと!
オペラ研究家の岸純信さんが書かれた「永遠の不思議少女」というイメージはそのままに、より成熟した大人の魅力を感じさせてくれました。
そして、歌を聴いて、今度は金縛りのような状態にさせられました。
プティボンの透明でかつウェットな声質は、私の好みにぴったりなのです。そして技術の確かさ、声量、表現力ともに申し分ない。
とくに、これだけ声量があるとは想像していませんでした。
そして、ときに切なく、ときに激しく、ときにコミカルに演じきる表現力を兼ね備えているわけですから、この人のオペラは絶対に見逃せないですね。

さて、第1部はR・アーンの曲で始まりました。
冒頭の「クロニスに」は、バロック風の曲調で、バスの進行がG線上のアリアにそっくり。ピアノの「怒りの日」の旋律が印象に残る3曲目「葡萄摘みの3日間」もとても素敵な佳曲です。プティボンの柔らかな声が、アーンの作風によく映えていました。
コープランドの作品では、小道具を使いながら、一転してユーモラスでコケティッシュなプティボンをみせてもらいました。
そして、前半でもっとも印象に残ったのが、アメリカ民謡の「私の愛しい人は黒髪」。
メロディの美しさと、切々と訴えかけるプティボンの表情に、私は大いに感銘を受けました。
第1部のラストを飾ったプーランクでは、まず「ヴィオロン」を聴いた瞬間に「あー、プーランク」と感じました。
名作フルートソナタに似た独特の雰囲気がホールに溢れます。
続く「愛の小径」は、がらりと趣向が変わり、シャンパングラス片手に聴きたくなるような魅惑的な音楽。そんな音楽を、美しいプティボンの歌できけるのですから、まさに最高の贅沢ですよね。

第2部の前半は、一路スペインへ。
プティボンの声がちょっと美しすぎるような気もしましたが、他の曲とは異なり、ステージに正対せずに斜めに構えながら、彼女はまさにカンテフラメンコを思わせる世界に誘ってくれました。
続いてのプログラムは、モーツァルトの「フィガロの結婚」の第4幕からセレクトされた2曲のアリア。
ともに私の大好きな曲です。
まず、あの美しいバルバリーナのアリア。
実際のオペラの舞台で、プティボンクラスの歌手がバルバリーナを歌うことは、まずないでしょうから、その意味でも貴重です。本当に真っ暗になった舞台で、懸命にピンを探すバルバリーナ。青⇒橙⇒赤と微妙に色が変わるカラーボールも、小道具の域を超えた効果を醸しだしていました。
そして、2曲目はスザンナの喜びに満ちたアリア。
こちらもため息をつくくらい美しい。歌い終わるや否や、いっせいにブラヴォーの声がかかりました。
ラストのアブルケルのジュ・テームも勿論良かったけど、この日の白眉はやはりモーツァルトだったような気がします。
アンコールでは、オランピアのアリアが素晴らしかったなぁ。

ともあれ、こんなにも素敵なコンサートだったわけですが、唯一心残りだったのは、翌日早朝から大阪へ行く用事があったので、終演後、後ろ髪を引かれながら速攻でホールを後にしてしまったこと。
ご一緒させて頂いたyokochanさんは、しっかりサインを貰われたようなので、逃した魚はあまりにも大きいです。
「あー、悔しい!」(爆)

しかし、大変な才能ですね。
この日来ていたすべての聴衆を、きっと虜にしたことでしょう。
もう、ナタリーの妹分なんて言わせない。
わたしは、パトリシア・プティボン。
その意味でも、新しいディーヴァの誕生と感じたのです。
しかし今回の来日公演で、彼女は確実に「日本のアイドル」になってしまいました。
もう少しの間、「知る人ぞ知る」存在でいてくれたほうが嬉しかったなぁ。
おっと、思わず本音が出てしまいました。
すみません。おじさんの戯言でした・・・(笑)

コメント (8)
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ウィーン国立歌劇場 イオアン・ホーレンダー総監督が語る

2008-04-09 | その他
昨日、ウィーン国立歌劇場の総支配人であるホーレンダー氏のセミナーがあり、なかなか興味深い話が聞けました。  

■日時:2008年4月8日(火)19:00開演
■会場:浜離宮朝日ホール
■テーマ
  ウィーン国立歌劇場 イオアン・ホーレンダー総監督が語る
  「音楽の都ウィーンと歌劇場の全て」
■レクチャー: イオアン・ホーレンダー(ウィーン国立歌劇場総監督)
■モデレーター:奥田佳道(音楽評論家)
■通訳:松田暁子


途中、貴重な映像も交えながら、ホーレンダーさんの話を中心に、奥田さんが司会兼解説者となってセミナーは進められました。
以下、印象に残っていることを書きます。

■ウィーン国立歌劇場のこと
1920年まではウィーン宮廷歌劇場と呼ばれていた。
第2次世界大戦で焼かれたが、1955年11月5日、カール・ベームの指揮による「フィデリオ」で活動を再開した。
50年後の2005年に行なわれた「ウィーン国立歌劇場 再建50周年記念ガラ・コンサート」は、その意味でも大変想い出深い。
過去の総監督で重要な功績を残したのは、マーラーとカラヤンだと思う。
7月8月のシーズンを除いて、ウィーン国立歌劇場では毎日異なるプロで公演を続けており、平均60万人もの聴衆が観に来てくれる。
演目数も、今年度の場合48作品を数える。
その毎日公演を可能にしてくれるのが、合唱団とオーケストラ。
オーケストラは勿論有名なウィーンフィルだが、合唱団もリハーサルなしに見事に演奏できる素晴らしい存在。

■子供のためのプログラムのこと
歌劇場の屋上のテラスで開催。
入場料は3ユーロ(500円程度)で、対象は6~12歳の子供。
大人は入場できない。
年間20~30回上演され、のべ8000人~9000人の子供が来場する。
予算は年間5000万ユーロ。
演目は、「魔笛」と「ニーベルンクの指輪」の2演目。
このうち、「ニーベルンクの指輪」は日本の新国立劇場での公演がヒントになっている。(「ジークフリートの冒険」のこと?)
子供は騙せない。面白くなければ騒いだりすぐにトイレに行ったりするし、いったん席を離れたら絶対戻ってこないもの。
両親にも友人にも話すだろうし、また是非観たいと思わせることが大切。
子供達には、まず歌劇場の屋上だから全体が見渡せるので、「歌劇場って、こんなに広いんだ」と実感させる。そして、この大きな歌劇場で、毎日素晴らしいオペラが上演されていることを理解させる。
そして、大きくなったときに、自然にオペラを観たいと思わせるようにしたい。

■総監督とオペラ経営
どうしてオーストリア人でもないのに、ウィーン国立歌劇場という最高の歌劇場の総監督という名誉ある職に、4回も契約を更新してもらえたのか。
それは、「クオリティを大事にしてきたから」というひとことに尽きる。
「良いものを提供すれば、必ず買ってくれる人がいる」ということ。
この事実は、歌劇場経営だけではなく、レストラン経営でも、新聞社の経営でも同じことだ。
赤字・黒字の話に少し触れると、オペラというのは、いくら劇場収入以外の部分(DVDの販売等)で頑張ったところで、絶対収入よりも支出が上回るもの。
金銭的に儲かるものではない。極めて精神的なものだということを、まず理解してほしい。
その上で、どこにお金を使って、どこにお金を使わないかをはっきりさせること。
とくに「どこにお金を使わないか」という節約の部分が最も重要。

■海外公演について
2008年10月には来日公演があるが、同じ日にウィーン国立歌劇場でもフィガロが上演されることになっている。
質を落とさずにマルチで上演できる秘訣は、たとえばオケでいうと143人という多目の人数を抱えていること。
それでも、ワーグナーをやるときは、さすがにマルチで上演することはできないが、(ワーグナーに比べると小規模な)モーツァルト&モーツァルト、モーツァルト&ベートーヴェン等の組み合わせであれば可能だ。
また、歌劇場が海外公演に出ているときに、ウィーンでは(オケは小規模で済む)バレエを上演していることもある。
このような工夫をしながら、上演を続けている。

■演出について
簡単に説明できないので、できればあまり答えたくないテーマ。
オペラという世界では、上演に値する新しい作品を次々に取り入れることは難しい。
だから、(マンネリ化を防ぐ意味からも)今まであるものを、少しずつ変える形で上演してきている。
ただし、作曲家の意図が変わってしまうようなことは、良くない。
それは「オペラ上演における病気」だとさえ思う。オペラで重要なのは、次の3つ。
①指揮、②歌手、③演出
この3つは均等に大切なのであって、どの項目も決して突出してはならない。
演出という点で考えると、たとえばアイーダ。
ラダメスは必ずしも象に乗って登場する必要はないが、だからといって、ヘリコプターで登場しなくてもいいでしょう。

■好きなオペラ、嫌いなオペラ
正直に申しあげると、バロックオペラは、あまり評価していない。
ただ、ワーグナーの「神々の黄昏」と「セビリアの理髪師」を比較するなんて、土台無理な話。それぞれに、全く異なる個性があって、それぞれに素晴らしいのだから。

■最高のオペラ上演とは
まず、何よりも音楽が素晴らしいこと。
そして、内的に満たされているものが素晴らしいと思う。
ただ、ロッシーニとリヒャルト・シュトラウスのオペラを比べて、こちらが上と言ってみたところであまり意味はない。
私(ホーレンダー氏)も、常に聴衆の一人として上演を観ているので、皆さんも、是非歌劇場に足を運んでください。

ざっと以上のような話でした。
熱心にメモを取ったわけではないので、きっと誤りや書き漏らしたことがあると思いますが、その点は平にご容赦を。
それから、この日のホーレンダー総監督の話をきいていて、びんびん感じたことがあります。
それは、ホーレンダーさんが、現シェフであり大切なテニス仲間でもある小澤征爾さんのことを、どれだけ高く評価し信頼しているかということ。
日本という国も文化も、きっと小澤さんという人間を通して理解しているのでしょうね。
2010年からは、シェフがウェルザー・メスト、総監督がマイヤーという新体制になりますが、彼らの手腕に大いに期待しているとも語っておられました。
2010年に、ホーレンダーさんと小澤さんが、同じタイミングで国立歌劇場を去ることになったのも、確かに何か運命的な気がしますね。
コメント (4)
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スクロヴァチェフスキ&読響/ブルックナー:交響曲第2番ほか

2008-04-06 | コンサートの感想
2008年度最初の読響マチネーを聴いてきました。

<日時>2008年4月5日(土) 午後2時開演
<会場>東京芸術劇場
<曲目>
■スクロヴァチェフスキ : 左手のためのピアノ協奏曲「コンチェルト・ニコロ」
■ブルックナー : 交響曲第2番ハ短調
<演奏>
■ピアノ:ゲリー・グラフマン
■指 揮:スタニスラフ・ スクロヴァチェフスキ
■管弦楽:読売日本交響楽団

前半は、マエストロ自作のピアノ協奏曲。
この日のソリスト、ゲイリー・グラフマンのために5年前に書かれた作品です。
グラフマンといえば、私はセルと組んだプロコフィエフのコンチェルトが今も忘れられません。それは本当に素晴らしい演奏だった・・・。
しかし、グラフマンは51歳の時に右手の薬指を故障したため、その後通常のレパートリーを弾くことができなくなります。
そんな彼のために、親友スクロヴァチェフスキが左手だけの作品として書いたのが、この「コンチェルト ニコロ」。
このニコロは、ニコロ・パガニーニのことで、有名なカプリス第24番のテーマが曲全体のモチーフとして使われています。
曲は4楽章から成り立っていますが、決して難解な作品ではありません。
音楽の描写が自然で、目をつぶって聴いていると、いろいろな情景が思い浮かびます。
森、海、山、朝、真夜中、ふくろう、鳥の声・・・。
素敵な作品だと思いました。

後半は、ブルックナーの2番。
冒頭のブルックナー開始から、すでに「霧のように、自然に・・・」始まるだけではなく、しっかりリズムを感じさせてくれるところがスクロヴァ流。
それぞれの主題の表情も明快に描かれていて、何よりも見透しがすこぶるいいので、いつものことながら、安心してブルックナーの音楽を堪能できます。
ところで、昨日私は演奏を聴きながら、「なぜ、こんなに良い曲なのに、ウィーンで理解されなかったんだろう」と考えていました。
私たちは、その後の作品、とくに7番以降の偉大な交響曲をすでに知っています。その圧倒的なスケール感、時間的には確かに長いかもしれないけど、少し立ち止まってみれば曲のあちらこちらで発見できる可憐な美しさ、聴き終わった後の何物にも代えがたい充実感を知っているのです。
だから、この2番のような(彼にとっては)比較的初期の作品を聴いても、後期の作品の成功体験を通して、その魅力を十分感じることができるのかもしれません。
この曲だけを注釈なしに聴かされたら、確かに戸惑ったかも。

さて、この日の演奏に戻します。
第2楽章の敬虔な美しさは、この日の白眉でした。
それにしても、この日の読響の弦は、本当に綺麗だったなぁ。
最後のソロヴァイオリン(藤原浜雄さん)とフルートのデュエットは、今でもはっきりと思い出すことができます。
第3楽章から終楽章にかけては、そのテンポの素晴らしさと見透しのよさが光っていました。
圧倒的な迫力で迫ってくるのに、絶対音が団子にならないのです。響きが決して無機的にならないのも大きな特徴です。
こんなブルックナーを聴かせてくれる指揮者は、現在数えるほどしかいないでしょう。
この大曲を、この日暗譜で指揮したスクロヴァさん。
とても85歳とは思えないお元気さですが、一日でも長く指揮台に登ってくれることを願うばかりです。

P.S
お元気といえば、昨年退団された菅原淳さんが、この日ティンパニを叩いていらっしゃいました。
まさに扇の要といった風情で、その存在感はまったく以前のままでした。
なにやら、とても懐かしく感じた次第です。
コメント (2)
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バルビゼ&ランパル モーツァルト ピアノ協奏曲第21番・第22番

2008-04-03 | CDの試聴記
一気に春がきましたね。
桜もあっという間に開花しましたし、会社では初々しい新入社員も入ってきました。
そして、プロ野球も始まりました。
野球の話は、またいずれゆっくり書かせてもらうとして、この時期は、ひとつだけ苦手なことが・・・。
それは花粉です。
花粉さえ飛ばなければ、もっともっと楽しい季節のはずなのに・・・。(泣)

さて、そんな状況ですが、最近春の訪れを実感させてくれるような、素敵なディスクを聴きました。

「室内楽の名手バルビゼと、天才フルーティスト・ランパルの競演」
⇒ははーん。きっと、フランス系のフルートソナタだな。フランクとピエルネのソナタ(ヴァイオリンソナタが原曲)も彼らはレコーディングしているし・・・。

「曲はモーツァルト」
⇒あっ、フランスものじゃないんだ。ひょっとして、ヴァイオリンソナタのフルート編曲版?

「しかもコンチェルト」
⇒おっと、そうきたか。それなら、フルート協奏曲しかないなぁ。でもバルビゼは指揮もやったのか・・・。

こんな風に想像する方が多いのではないかしら。
残念ながら、大はずれです。
私もしっかり騙されました(笑)
モーツァルトはモーツァルトでも、ピアノコンチェルトでした。
ランパルが指揮をして、バルビゼがソロを弾いている。
持ち味を考えたら、明らかに反対のキャラですよね。
しかし、これがいける!
だから音楽は面白いのです。
予想通り輝かしく、しかし意外なくらい真面目なアプローチをみせる指揮者ランパルに対して、「俺が俺が」というソリストにありがちな強烈な自己主張に代えて、その真摯さがじわりと聴き手に迫ってくるバルビゼのピアノ。

私がとくに感銘を受けたのは、第22番の第2楽章でした。
深い呼吸感で懸命に悲しみをこらえながら奏でる弦楽合奏を受けて、静かに弾き始めるバルビゼのピアノが、もう哀しいくらいに美しい。
その後、クラリネットが入ってくると、俄かに管楽器のセレナード風の音楽に変わっていきます。この明るく伸びやかな表現は、紛れもなくランパルの持ち味。
しかし、こんな晴れやかな雰囲気は長く続きません。哀愁を帯びたバルビゼのピアノが入ってくると、再び冒頭の雰囲気に呼び戻されてしまうのです。
このあたりから、音楽は徐々に悲しいのか楽しいのか分からなくなってきます。
そして、4分50秒過ぎからのフルートとファゴットのデュエットでは、ひょっとしてランパルが吹いているのではと思わせるような華やかさが感じられます。
まあ、何とも見事な変奏曲!
そして、これほど場面場面を鮮やかに描き分けながら、その底流にある悲しみを最後まで感じさせてくれる演奏も、そう多くないでしょう。
名曲でありながら、これといった決定盤が少ないK.482。
十分存在意義を主張できるディスクだと思います。

一方、第21番では、とくに第1楽章で強拍のアクセントがやや気になりましたが、バルビゼもランパルも意図的に行進曲風のリズムを強調したかったのかもしれません。
ニュアンスに富んだというよりも、むしろ音楽の流れや勢いを大切にした演奏のように私は感じました。
こんな若鮎が飛び跳ねるような表現も、確実にモーツァルトの一面を突いていますね。
私にとっての愛聴盤が、また1枚増えました。

<曲目>
モーツァルト 
■ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467
■ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482
<演奏>     
■ピエール・バルビゼ(P) 
■ジャン=ピエール・ランパル指揮
■室内管弦楽団
<録音>1950年代 原盤:仏BAM LD-078
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