あっという間に秋が近づいてきた。
それも、ディミヌエンドではなく、まさしくスビート・ピアノの感覚で。
あまりに突然すぎて、体がついていかない。
今年の天候の特徴が「異常○○」「ゲリラ○○」「突然の○○」だったので、ある程度は覚悟していたが・・・。
でも、スーツが普通に着れる気候になったことは、わたし的にはウェルカムだ。
さて、前回に続いてル・ジュルナル・ド・パリの室内楽編の感想を。
この日は、開演前にも「仕事上の神経戦」をやっていたため、その複雑な心理状態を引きずったまま、第1部最初の演目であるフランクのピアノ五重奏曲を聴くことになった。
きっと私は、室内楽を愉しむには凡そ相応しくないような険しい表情をしていたに違いない。
定刻になり、奏者たちがステージに登場し、冒頭の悲劇的な和音がホールに響きわたる。
上記のような私の心理状態もあって、普段聴いているフランクのこの音楽よりも、ずっとインパクトが強い。
しかし、そんな悲劇的な響きを聴いても、まったく気持ちが沈みこむことはなかった。
むしろ何とも言えない心地よい感覚に浸っている自分を発見して、いささか驚いている。
ただ、五感は相当鋭敏になっていたのだろう。
ちょっとしたニュアンスの変化にも、体がヴィヴィッドに反応していた。
音楽は、ルゲの意思の強いピアノにモディリアーニ弦楽四重奏団が激しく絡み、大きなうねりの中に濃密な雰囲気を醸し出しながら進んでいった。
第1楽章を聴きながら、早くも「ああ、フランク!」と胸がいっぱいになる。
そして、静かに且つ熱いやりとりが延々と続く第2楽章が、やはり感動的だった。
美貌の弟子であったオーギュスタン・オルメスとのエピソードを持ち出すまでもなく、この一種独特の恍惚とした表情は何とも魅力的だ。
プログラムのライナーノートを書かれたオヤマダ・アツシさんの「甘さを控えた濃厚なチーズケーキ」という表現に、全面的に賛同する。
このフランクのクインテットを聴き終えた頃には、私の心も、ようやくいつもと同じ状態になっていた。
第2部は、フォーレのエレジー。
演奏者が予定されていたルゲからケフェレックに替わっていた。
ルゲとケフェレックは、同じフランスの女流ピアニストでありながら、その演奏スタイルがまるで違うことに改めて驚く。
このフォーレではケフェレックの凛としたピアノに支えられて、モディリアーニSQのチェロ奏者であるキエフェルがノスタルジックに歌いあげていた。
第3部のルクーの瞑想曲は、滅多に実演で聴けない曲。
夭折の天才ルクーの17歳のときの作品だ。
冒頭チェロが奏でる2度音程の音型が、最後まで印象に残った。
同じ17歳の時にルクーが書いた「弦楽四重奏のためのモルト・アダージョ」に似て、本当に美しい。
ただ、この曲では、少し音程が気になったのが残念。
第4部は、ドビュッシーの弦楽四重奏曲。
これは、素晴らしかった。
第2楽章のピツィカートは実演で聴くと、視覚的なイメージもあって一層印象的。
そして、何と言っても続く第3楽章の深い表情が絶品だった。
終楽章では、「ため息」のような弦の表情もよかったし、緊密に練り上げられたアンサンブルが見事。
モディリアーニ弦楽四重奏団の面目躍如たる演奏だったと思う。
弦楽四重奏曲の傑作として、ドビュッシーの作品はラヴェルのそれとともに語られることが多いが、この日聴いてみて、ドビュッシーの方が現実的というか、より音楽として完結した世界を持っていると思った。
一方のラヴェルの弦楽四重奏曲は、比較すると、現実からさらに未来へ一歩足を踏み出しているように感じる。
普段どちらかというとフランス音楽を聴く機会が少ない私にとって、今回の一連のコンサートは貴重だった。
また、ちょうど「曲線の美しさ」に癒されたかった時期だけに、この日のコンサートは特別の想い出になった。
来年も、このイベントは是非聴いてみたい。
<日時>2010年9月18日(土) 14:00開演
<会場>東京オペラシティ コンサートホール
<曲目&演奏者>
■フランク:ピアノ五重奏曲 ヘ短調
(C-M.ルゲ/モディリアーニ弦楽四重奏団)
■フォーレ:チェロとピアノのためのエレジー ハ短調 op.24
(F.キエフェル/A.ケフェレック)
■ルクー:弦楽四重奏のための瞑想曲 ト短調
(モディリアーニ弦楽四重奏団)
■ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 op.10
(モディリアーニ弦楽四重奏団)
それも、ディミヌエンドではなく、まさしくスビート・ピアノの感覚で。
あまりに突然すぎて、体がついていかない。
今年の天候の特徴が「異常○○」「ゲリラ○○」「突然の○○」だったので、ある程度は覚悟していたが・・・。
でも、スーツが普通に着れる気候になったことは、わたし的にはウェルカムだ。
さて、前回に続いてル・ジュルナル・ド・パリの室内楽編の感想を。
この日は、開演前にも「仕事上の神経戦」をやっていたため、その複雑な心理状態を引きずったまま、第1部最初の演目であるフランクのピアノ五重奏曲を聴くことになった。
きっと私は、室内楽を愉しむには凡そ相応しくないような険しい表情をしていたに違いない。
定刻になり、奏者たちがステージに登場し、冒頭の悲劇的な和音がホールに響きわたる。
上記のような私の心理状態もあって、普段聴いているフランクのこの音楽よりも、ずっとインパクトが強い。
しかし、そんな悲劇的な響きを聴いても、まったく気持ちが沈みこむことはなかった。
むしろ何とも言えない心地よい感覚に浸っている自分を発見して、いささか驚いている。
ただ、五感は相当鋭敏になっていたのだろう。
ちょっとしたニュアンスの変化にも、体がヴィヴィッドに反応していた。
音楽は、ルゲの意思の強いピアノにモディリアーニ弦楽四重奏団が激しく絡み、大きなうねりの中に濃密な雰囲気を醸し出しながら進んでいった。
第1楽章を聴きながら、早くも「ああ、フランク!」と胸がいっぱいになる。
そして、静かに且つ熱いやりとりが延々と続く第2楽章が、やはり感動的だった。
美貌の弟子であったオーギュスタン・オルメスとのエピソードを持ち出すまでもなく、この一種独特の恍惚とした表情は何とも魅力的だ。
プログラムのライナーノートを書かれたオヤマダ・アツシさんの「甘さを控えた濃厚なチーズケーキ」という表現に、全面的に賛同する。
このフランクのクインテットを聴き終えた頃には、私の心も、ようやくいつもと同じ状態になっていた。
第2部は、フォーレのエレジー。
演奏者が予定されていたルゲからケフェレックに替わっていた。
ルゲとケフェレックは、同じフランスの女流ピアニストでありながら、その演奏スタイルがまるで違うことに改めて驚く。
このフォーレではケフェレックの凛としたピアノに支えられて、モディリアーニSQのチェロ奏者であるキエフェルがノスタルジックに歌いあげていた。
第3部のルクーの瞑想曲は、滅多に実演で聴けない曲。
夭折の天才ルクーの17歳のときの作品だ。
冒頭チェロが奏でる2度音程の音型が、最後まで印象に残った。
同じ17歳の時にルクーが書いた「弦楽四重奏のためのモルト・アダージョ」に似て、本当に美しい。
ただ、この曲では、少し音程が気になったのが残念。
第4部は、ドビュッシーの弦楽四重奏曲。
これは、素晴らしかった。
第2楽章のピツィカートは実演で聴くと、視覚的なイメージもあって一層印象的。
そして、何と言っても続く第3楽章の深い表情が絶品だった。
終楽章では、「ため息」のような弦の表情もよかったし、緊密に練り上げられたアンサンブルが見事。
モディリアーニ弦楽四重奏団の面目躍如たる演奏だったと思う。
弦楽四重奏曲の傑作として、ドビュッシーの作品はラヴェルのそれとともに語られることが多いが、この日聴いてみて、ドビュッシーの方が現実的というか、より音楽として完結した世界を持っていると思った。
一方のラヴェルの弦楽四重奏曲は、比較すると、現実からさらに未来へ一歩足を踏み出しているように感じる。
普段どちらかというとフランス音楽を聴く機会が少ない私にとって、今回の一連のコンサートは貴重だった。
また、ちょうど「曲線の美しさ」に癒されたかった時期だけに、この日のコンサートは特別の想い出になった。
来年も、このイベントは是非聴いてみたい。
<日時>2010年9月18日(土) 14:00開演
<会場>東京オペラシティ コンサートホール
<曲目&演奏者>
■フランク:ピアノ五重奏曲 ヘ短調
(C-M.ルゲ/モディリアーニ弦楽四重奏団)
■フォーレ:チェロとピアノのためのエレジー ハ短調 op.24
(F.キエフェル/A.ケフェレック)
■ルクー:弦楽四重奏のための瞑想曲 ト短調
(モディリアーニ弦楽四重奏団)
■ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 op.10
(モディリアーニ弦楽四重奏団)