シャイーの演奏を初めて聴いたのは、随分昔になるがウィーンフィルと組んだチャイコフスキーの5番のディスクだった。
多分LPだったと思う。(今は手元にCDしかないが・・・)
<曲目>チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 作品64
<演奏>
■ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
■リッカルド・シャイー(指揮)
<録音>1980年12月
一聴して、私はすっかり彼らのチャイコフスキーに魅了された。
そこには、「今しかないんだ」といわんばかりの若さ、輝くような若さがあった。
この曲はあらゆるシンフォニーの中でも屈指の名曲だし、ほんとに様々なアプローチがあると思う。
純交響曲として格調高く演奏するのもよし、力と色彩感覚で押し切るのもよし、人生を振り返るような深い味わいで勝負するのもこれまたいい。
しかし、私が社会人になった年に録音されたこのシャイーたちのチャイコフスキーには、同時代を生きる人間として共感するところが多かった。
第2楽章のホルンとクラリネットが織りなす絶妙の表情、フィナーレの一点の曇りもない輝かしさを聴くと、今でもベストを争うだけの演奏だと改めて痛感させられる。
シャイーの手にかかると、とにかくオーケストラがよく響く。
それも決して無理せずに輝かしいサウンドで鳴り響く。
これも指揮者として大きな才能の一つだろう。
ただ、彼の音楽作りが、がっちりとした所謂ピラミッド型のサウンドを志向せず、常に音楽が澱みなく横に流れ、その流れに従って圧倒的なクライマックスに繋げていくというスタイルであるところに、評価が分かれるのかもしれない。
相方との相性によっては、確かに「ノーテンキ」となってしまう可能性もあるだろう。
その点でも、このウィーンフィルは彼にとって最高のパートナーだと思う。
そして、私がシャイーの実演に初めて接したロイヤル・コンセルトヘボウの来日公演(1993年)も素晴らしかった。
「新世界」「シェラザード」という選曲もフィットしていたのかもしれないが、とにかく美しく官能的な世界へ誘ってくれた。
一方、先日聴いたゲヴァントハウスとの共演では、縦と横が絶妙にミックスされた瑞々しいサウンドで大いに魅了してくれた。
ただ、昔大阪で聴いたゲヴァントハウス管弦楽団の音とは少し違っていたような気がする。
大阪で聴いたのはクルト・マズア率いる1979年11月の来日公演で、会場はフェスティバルホールだった。
その日私は2階席一番後方のあまり良くない席で前半のプロを聴いていたのだが、休憩時にある初老の方から「急用ができて帰らないといけなくなってしまった。いい席なので聴かれませんか」とチケットをいただいた。
お礼を言いつつチケットをみると、なんと2階最前列センターの席。
この幸運の席で聴いた後半のブラームスの1番は、今でもよく覚えている。
それはまさに底光りのするようなサウンドで、稀にみる素晴らしいブラームスだった。
「これぞドイツの音」と心から感心したものだ。
それに比べると、27日にサントリーホールで聴いたモーツァルトとマーラーのサウンドそのものは、かなり異なっていたかもしれない。
でも前回のエントリーでも書いたように、芯のところで、確かに聴き覚えのある音があったのだ。
そういえば、今年聴いたオーケストラの中でも、ウィーンフィル、ドレスデンシュターツカペレ、ゲヴァントハウスは独特の響きがしていた。
これが「伝統の音」というのなのだろうか。
多分LPだったと思う。(今は手元にCDしかないが・・・)
<曲目>チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 作品64
<演奏>
■ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
■リッカルド・シャイー(指揮)
<録音>1980年12月
一聴して、私はすっかり彼らのチャイコフスキーに魅了された。
そこには、「今しかないんだ」といわんばかりの若さ、輝くような若さがあった。
この曲はあらゆるシンフォニーの中でも屈指の名曲だし、ほんとに様々なアプローチがあると思う。
純交響曲として格調高く演奏するのもよし、力と色彩感覚で押し切るのもよし、人生を振り返るような深い味わいで勝負するのもこれまたいい。
しかし、私が社会人になった年に録音されたこのシャイーたちのチャイコフスキーには、同時代を生きる人間として共感するところが多かった。
第2楽章のホルンとクラリネットが織りなす絶妙の表情、フィナーレの一点の曇りもない輝かしさを聴くと、今でもベストを争うだけの演奏だと改めて痛感させられる。
シャイーの手にかかると、とにかくオーケストラがよく響く。
それも決して無理せずに輝かしいサウンドで鳴り響く。
これも指揮者として大きな才能の一つだろう。
ただ、彼の音楽作りが、がっちりとした所謂ピラミッド型のサウンドを志向せず、常に音楽が澱みなく横に流れ、その流れに従って圧倒的なクライマックスに繋げていくというスタイルであるところに、評価が分かれるのかもしれない。
相方との相性によっては、確かに「ノーテンキ」となってしまう可能性もあるだろう。
その点でも、このウィーンフィルは彼にとって最高のパートナーだと思う。
そして、私がシャイーの実演に初めて接したロイヤル・コンセルトヘボウの来日公演(1993年)も素晴らしかった。
「新世界」「シェラザード」という選曲もフィットしていたのかもしれないが、とにかく美しく官能的な世界へ誘ってくれた。
一方、先日聴いたゲヴァントハウスとの共演では、縦と横が絶妙にミックスされた瑞々しいサウンドで大いに魅了してくれた。
ただ、昔大阪で聴いたゲヴァントハウス管弦楽団の音とは少し違っていたような気がする。
大阪で聴いたのはクルト・マズア率いる1979年11月の来日公演で、会場はフェスティバルホールだった。
その日私は2階席一番後方のあまり良くない席で前半のプロを聴いていたのだが、休憩時にある初老の方から「急用ができて帰らないといけなくなってしまった。いい席なので聴かれませんか」とチケットをいただいた。
お礼を言いつつチケットをみると、なんと2階最前列センターの席。
この幸運の席で聴いた後半のブラームスの1番は、今でもよく覚えている。
それはまさに底光りのするようなサウンドで、稀にみる素晴らしいブラームスだった。
「これぞドイツの音」と心から感心したものだ。
それに比べると、27日にサントリーホールで聴いたモーツァルトとマーラーのサウンドそのものは、かなり異なっていたかもしれない。
でも前回のエントリーでも書いたように、芯のところで、確かに聴き覚えのある音があったのだ。
そういえば、今年聴いたオーケストラの中でも、ウィーンフィル、ドレスデンシュターツカペレ、ゲヴァントハウスは独特の響きがしていた。
これが「伝統の音」というのなのだろうか。