ETUDE

~美味しいお酒、香り高い珈琲、そして何よりも素敵な音楽。
これが、私(romani)の三種の神器です。~

今年一年を振り返って

2011-12-31 | CDの試聴記
今年も残すところあと一日。
本当に大変な一年だった。
大震災に始まり、政治も経済もかつて経験したことのないような危機的な状況になっているし、個人的にも、震災~父の死~母の手術等実にいろいろなことがあった。
そんな中、嬉しかったのは、11月の長男の結婚。
家族が増えるというのは、本当にいいことです。
昨日から夫婦で我が家に泊まりに来てくれているが、とても幸せな時間を過ごさせてもらった。

そして忘れてはならないのは、「人の絆」。
震災の時はたまたま東北へ出張していたが、避難所にいた私たちを案じて、お客様がご自宅に泊めてくださった。
ただ、ご自宅へお邪魔した時は、まだ全市停電中。
そんな中、奥様は懐中電灯片手に食事の用意をしてくださり、メインのお料理を食卓に持ってきていただいたその瞬間、電気がぱっと点灯したのだ。
まるでドラマのワンシーンのようだったが、居合わせた全員が、思わず「お~!」という声とともに拍手喝采した。
この感動は一生忘れないだろう。
また、震災で自宅の大切な食器が割れてしまったことを知った友人が、すぐに素敵な食器を大量に送ってくれた時も、嬉しくって思わず涙が出た。
それ以外にも、家族の絆、友人との絆、仕事関係の仲間との絆、お客様との絆、もう全てが私を勇気づけてくれた。
このようにさまざまな「絆」を感じさせてくれたことは、逆に試練を与えてくれた神様に感謝しないといけないかもしれない。
一方、音楽のことに目を移すと、さぼりにさぼってしまったブログは、ただただ反省あるのみ。
来年は頑張ります・・・(汗)
また、コンサートに出かけた数も例年の三分の一くらいに減ってしまったが、感動的な公演も多かった。
いつもはベスト10を選んできたが、今年はベスト5ということで、最後に簡単にご紹介したい。
■バッハ:ロ短調ミサ(2月27日)
ブリュッヘン指揮 新日本フィルハーモニー
アーノンクールのロ短調ミサと並んで、これからずっと私の心の中で宝物になるような演奏。感動的だった。

■ドニゼッティ:「ランメルモールのルチア」(6月12日)
メトロポリタンオペラ来日公演 ノセダ指揮 ダムラウ、ドルゴフ、ルチッチ
大好きなダムラウが、さらに大きな存在感を持つソプラノになったと確信した。デセイと並んで現代最高のルチアだと思う。

■ベルリーニ:「清教徒」(9月24日)
ボローニャ歌劇場来日公演 マリオッティ指揮 シラグーザ、ランカトーレ、ウリヴィエーリ
フローレスは来なかったけど、この歌劇場の実力はやはり一級品。ランカト―レが尻上がりに調子を上げ、最後は圧倒的なエンディングになった。

■マーラー:子供の不思議な角笛ほか(10月19日)
エッシェンバッハ指揮 ウィーンフィル マティアス・ゲルネ(Br)
大好きなウィーンフィル。やはり外せない。前半は正直並の演奏だったが、後半のマーラーで化けた。ゲルネの圧倒的な名唱がウィーンフィルを覚醒させたのだ。これぞマーラーという圧倒的な名演。

■ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」(12月17日)
アレクセーエフ指揮 新日本フィルハーモニー
サントリーホールのP席で聴いたこともあるが、私も一緒に演奏しているような錯覚を覚えた。終楽章では涙が止まらなかった。
やはりベートーヴェンの力、音楽の力というのは凄い。ひたすら感動した。

番外編
■エディット・マティス 公開レッスン(2月28日)
最愛のソプラノ、マティスさんを生で見れただけでも最高。その魅力的な声は今も健在。
また是非とも日本に来てください。

ざっとこんな感じです。
来年はどんな一年になるのでしょうか。
私自身は、大いに期待しています。
これから実家に帰省します。
皆さま、よいお年を・・・。
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マーラー:交響曲第7番ホ短調『夜の歌』 by クレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団

2011-12-28 | CDの試聴記
官庁は今日が御用納め。
私も30日は休暇を取る予定なので、仕事も年内あと一日だ。
さあ、頑張っていきましょう。

さて、最近読んだ吉田秀和氏の「フルトヴェングラー」という本の中に、次のような言葉が出てくる。
「何を語るか」「どう語るか」
この2つの言葉がとても印象に残ったので、少し書かせてもらう。

吉田さんは、概ね次のような意味でこれらの言葉を使っていた。
「何を語るかは作曲家の領域、どう語るかが指揮者の仕事」と割り切って考える指揮者が多いようだが、フルトヴェングラーは楽譜の中に封じ込められた生命を解放し、作品の語ってきかせる王国を音を通じて私たちの前に目に築き上げようとしていた。
つまり、フルトヴェングラーはどう語るかだけではなく、何を語るかについても自分の領域だと考えていたのだと。

私は、なるほどと大きく頷きながら読ませてもらった。
そこが、フルトヴェングラーの音楽における魅力の根源だったんだ。
逆に、何を語るかを持たずに(=自分の心の奥底から湧き出てくる何かを持たないまま)、楽譜に書かれた音符をそれらしく音として響かせることを目標にしているような演奏に出会うことがある。
聴いたときは耳に心地よく響いていたにも関わらず、しばらく経つと殆んど何の印象も残っていないような演奏等は、まさにその代表格だろう。
これでは聴き手に感動を与えられるはずがない。
仕事でも全く同じことが言えるわけだけど、やはり語るべきものをしっかり持って、それを自分の言葉で表現することが最も大切なのではないだろうか。

「どう語るか」という表現方法はフルトヴェングラーとまったく違うけど、オットー・クレンペラーもまさしく「語るべきもの」を持っていたマエストロだった。
そのクレンペラーによるマーラーの演奏を集めたボックスセットがリリースされたので、早速聴いてみた。
とくに印象に残ったのが第7番。

正直に告白すると、マーラーの全交響曲の中で、この7番が私にとってもっとも遠い作品だった。
まず劇的な場面が少ない割にやたら長い。
そして楽しいのか悲しいのか、はたまた怒っているのか笑っているのか、聴きながらだんだん分からなくなってくることも、この曲が縁遠くなっていた原因だった。
誤解を恐れずにいうと、この曲を聴いていると、何やら得体のしれない動物と格闘しているような錯覚を覚えるのだ。
しかし、今回久しぶりにクレンペラーの演奏を聴いて、その「得体のしれないもの」に惹かれるようになってきた。
得体のしれないものを、クレンペラーは何の加工も施さずに、むしろ彼一流の接写レンズを使って大写しにしてみせる。
その結果、グロテスクで生々しい印象をうける箇所も出てくるが、それがかえって独特の快感につながっていく。
一方、4楽章のマンドリンとギターが参加する「夜の歌」あたりは、これ以上ないくらいチャーミングだ。
美しいものは美しく、グロテスクなものは変に化粧を施さずそのままの姿で表現されるクレンペラーのマーラー。
私はとても魅力的だと思った。
年末年始、きっと何回も聴きなおすことだろう。

苦手だったマーラーの7番が、少しだけ私に近づいてきたような気がする。

マーラー:交響曲第7番ホ短調『夜の歌』
<演奏>
 オットー・クレンペラー(指揮)
 フィルハーモニア管弦楽団(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)
<録音>1968年9月
コメント (2)
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ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第7番 「大公」 by カザルス・トリオ

2011-12-23 | CDの試聴記
師走も、もう残すところ10日余り。
先週末、私にとって今年最後のコンサートになる第九を聴いてきた。
今年はアレクセーエフ率いる新日本フィルの演奏。
終始悠然としたテンポを守り、何一つ奇を衒った表現はない。ベートーヴェンの音楽の持つ力をひたすら信じて、実直に音を響かせていく。そして迎えた終楽章。器楽だけの長いフガートの後、合唱が歓喜の歌を歌い始めた途端、私の体の中で突如として抑えきれない感動がこみあげてきて、涙が止まらなくなった。
誰もが勇気づけられる素晴らしい箇所だけど、いままでこんなことはなかった。
この一年に起こったいろいろな出来事が頭の中を駆け巡り、それが私の中でベートーヴェンの音楽と完全に一体になったのだろう。
第九を聴いてこれほど大きな感動を得たことは、嘗てなかった。
演奏してくれた人たちの素晴らしさはもちろんだが、音楽の力、ベートーヴェンの偉大さというものを、改めて思い知らされた一日だった。

さて、いまお気に入りの珈琲豆(勿論バッハブレンドです!)を挽き、気持ちを込めて丁寧に淹れた珈琲を飲みながら、ベートーヴェンの「大公」を聴いている。
いや、実はこの一週間、何十回となくこの曲を聴き続けている。
今頃って言われそうだけど、きっかけは、村上春樹の「海辺のカフカ」。
この小説がブームだった時には、「大公」の特設コーナーができたとか。
恥ずかしながら、私はまったく知らなかった。
本の中で登場するのは、ハイフェッツ・フォイアマン・ルービンシュタインたちの演奏だ。
喫茶店の店内で流していた「大公」に興味をもった客の星野青年に、店主がやさしく語りかける。
「(この演奏は)ルービンシュタイン = ハイフェッツ = フォイアマンのトリオです。当時は、『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。1941年という古い録音ですが、輝きが褪せません」
まさにその通りだ。
「100万ドルトリオ」という呼称はあまり好きじゃないけど、この演奏を聴くと確かにずっしりとした手応えを感じる。
70年以上前のこの録音から放たれるオーラの強さと迫力は、尋常ではない。
録音時、ハイフェッツとルービンシュタインの音楽的な主張がかなり食い違ったそうだが、逆にその食い違いがこの独特のオーラにつながったのかもしれない。
そして中を取り持ったとされるフォイアマンが、実にいい味を出している。
ただ、これほど各楽器に「我も我も・・・」と自己主張されると、いささか食傷気味になってくる。

私が今まで大切に聴き続けてきたディスクは、シェリング・フルニエ・ケンプたちの録音。
「百万ドルトリオ」の後で、聴いてみた。
やはり素晴らしい。端正で、気品に満ちていて、風格がある。
やっぱり、この演奏こそ「大公」の理想だ。

そんな風に思いながら、ふと部屋を見渡すと、片隅に積み上げた段ボール箱があった。
近々まとめて処分する予定のCDを詰めた段ボール箱だ。
何か引っかかるものがあって中を確認すると、カザルストリオが演奏した「大公」のディスクがあった。
最後にもう一度だけ聴いてみようと思いプレーヤーにかけてみる。
驚いた。本当に驚いた。
何と、ふくよかで瑞々しい演奏だろう。
高貴で、優しさに溢れ、加えてひたむきな情熱も併せ持っている。
たとえば第3楽章のアンダンテ・カンタービレ。
典雅なサラバンド風の主題に続き、第一変奏では、ピアノのアルペッジョに伴われて、カザルスが豊かに、そして息の長いフレージングで歌い始める。楽器の音というよりも、まるでカザルスという最もヒューマンな音楽家の心の声が、音となって表現されているようだ。
このときチェロを優しく見守るコルトーのピアノが、たとえようもなく美しい。そして、この二人が作り上げた雰囲気を、ティボーが見事に受け継いでいく。その後は、この神々しいまでの雰囲気を保ちながら、全員で音を紡いでいく。もうため息が出るばかりだ。
一方、先述の百万ドルトリオの演奏では、表情豊かに歌うフォイアマンに対してルービンシュタインも負けじと自己主張してくる。
このあたりがコルトーとの大きな違い。そしてハイフェッツが加わると、いよいよ三重協奏曲のような様相を呈することになるが、その分熱くスリリングな音楽になっていくことも事実。
この勝負、どちらがいいなんて簡単に言えるはずもないが、私はコルトー・カザルスたちの演奏の方がはるかに好きだ。

ちなみにティボー・カザルス・コルトーという名人たちによるこの演奏は、百万ドルトリオの録音よりもさらに古く、1928年に録音されたものだ。
もちろん原盤はSP。しかしこのCDへの復刻は奇跡的に上手くいっている。
むしろ音としてのコンディションは、百万ドルトリオよりずっといいくらいだ。

それにしても、いままで一体私は何を聴いてきたんだろう。
情けない限り・・・
しかし、結果的に間一髪のところで、この宝物を救い出すことができた。
そしてこのディスクは、まだ50枚ほどしか入ることを許されていない、CDラックの特等席に鎮座することになった。
今後も折に触れて聴くことになると思う。

<曲目>
■ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第7番 変ロ長調 作品97「大公」
■シューベルト:ピアノ三重奏曲 第1番 変ロ長調 D.898
<演奏>
■カザルス・トリオ
 ティボー(Vn),カザルス(Vc),コルトー(P)
<録音>1928年11月19日
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