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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

川は陽の目を見たがっているのでは 都市の下の暗渠

2016-11-10 11:52:29 | よしなしごと

 岐阜は、奥美濃に発した長良川が、美濃の里山を縫うようにして流れ、一挙に平野へと放たれる箇所に位置する。濃尾平野のひとつの突き当りでもある。

 ここで平野にまみえた長良川は、人々の営みにより、多くの分流を生み、この平野を潤す。それらは地域の田畑を潤し、実り豊かな大地を生み出しながらその末流は自らの下流、ないしは南を流れる木曽川と回収される。

             
      上の太い流れが長良川本流 その下の水路のほとんどが暗渠と化している

 したがって、現在の岐阜市と称される場所には、それら分流の水路が縱橫に走っていた。それらは古地図によって確認することができる。岐阜市の繁華街(であったというべきか、あゝ)柳ヶ瀬も、その名が示すごとく、かつてはそうした水路沿いの柳の名所であった。

 しかし現在、それらの流れを目撃することはあまりない。
 そのほとんどが暗渠になっているからである。上記の柳ヶ瀬も、かつての水流のほんの一部を、暗渠の蓋を排除してアクアージュ柳ヶ瀬として披露しているが、暗渠から出てすぐさま暗渠へと消え行く様はどこか哀れな感がある。

                
                アクアージュ柳ヶ瀬の一部

 岐阜の街を、徒歩か自転車で散策していると、それら暗渠と思われる箇所に行き当たることがある。
 それが目に見えて分かる場所が、橋の欄干が残っている場所や、なんかそれらしい蓋が敷き詰められている場所。

 また、聴覚でそれとわかる場所もある。それは、大雨の後など、歩行中の足元からふいに水流と思しき音が聞こえる場合である。時としてそれは滔々として響いている場合がある。
 「お!お前ここで健在であったか」という思いが湧き上がる。

 闇の中を流れる水流はどこか哀しい。それが10キロ以上にも及ぶとなるとなおさらである。
 昔読んだSF小説で、ある都市の暗渠の川に、捨てられたペットの魚類や両生類、爬虫類などが住みつき、彼らは何代も経て、目が退化し、それぞれが真っ白な個体となって、なお、ひとつの共同体をなして生存しているという話を読んだことがある。

 わが岐阜市の暗渠にも、真っ白な鮎、鰻、鯰、鯉、鮒、泥鰌、山椒魚、井守、諸魚、鮠、目高、亀、蛙、などが一緒になって共同体をなしているのでは幻視することがある。

           
           
道路に残る欄干 川や橋の名前は削られている この車の置いてあるあたりはすべてかつての水路だった

 しかし、やはり暗渠を流れるこれら水流も大空のもとを流れ、陽の目を見たがっているのではないだろうか。
 それを塞いでいるコンクリートの蓋を引剥して、それら流れを昔日のように自然な流れにすることはできないのだろうか。

 もし、それが実現すれば、岐阜はいたるところに清流が微笑み、白く退化する前の水性動物たちも遊び、季節ともなれば、街中を蛍が飛び交うことも可能なのだが、誰かそれを発議しないのだろうか。

            
 岐阜駅南のこの川、この橋から下流がオープンで、そこまでは暗渠 私の子供の頃はもっと上流までオープンで、そこで小魚を追いかけたりしたことがある あちこちで自噴する文字通りの清水川で、近くには酒蔵もある

 実は10年ほど前、岐阜市内の居酒屋でその話をしたことがある。その場には当時の市会議員もいたが、老人のたわごととしてまじめにはとりあってはくれなかったようだ。たしかに、それら暗渠の上は道路になっていたり駐車場になっていたりするので、そんなに簡単ではないだろうとは思う。

 しかし、私は繰り返したい。
 岐阜市には、街の足下に実に多くの水流があり、それらは暗渠としてある。それらの蓋を引剥して清流の街を再現することはできないのだろうか。
 それをしたら、私たちの足下でたむろする「白い水性動物」たちの楽園を奪うことになるのだろうか。

 






コメント (4)
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