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自然と人間の輪廻 映画『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』を観る

2020-08-06 16:03:27 | 映画評論

 たぶん、今年はじめて劇場のスクリーンで映画を観た。しかも、途中で用件をひとつ挟んで二つの映画を観た。気温が36度で、しかも岐阜県には非常事態宣言が出ているのにである。

 まあしかし、密にはならない。それぞれの映画とも、観客数は一桁。女性デーでいつもならもっと多いはずなのだが。
 二つの内、観客が3人ほどだった映画について書いておこう。

              

 『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』(監督・撮影:百崎満晴)がそれであった。
 秩父山地の北の端にある限界集落と、そこに住む人たちを20年近くにわたってカメラに収めたNHKのドキュメンタリーシリーズ(その折のタイトルは「秩父山中 花のあとさき」)の総集編ともいえる映画である。
 なにか劇的なシーンがあるわけでもない。カメラは、山肌の急斜面にしがみつくような佇まいの集落と、そこに住む人たち、とりわけ、もう耕作できなくなったかつての畑や集落周辺に、花の樹々を植え続ける小林ムツさんを中心に、その日常を追ってゆく。

            

 かつては、炭焼と養蚕、杉の出荷などが盛んで、住人も100人を超えたという集落も撮影を始めた2001(平成13)年には5世帯、9人、平均年齢73歳だったという。それから、約20年後、人口が0人となるところまでの物語だ。

 多くの映画評がいうように、ここには素朴だが最も美しい人間と自然の共生があるという。それは間違いではない。
 しかし、ここにはただの共生では済まされない、その葛藤の歴史も含めた、もっと大きな意味での自然と人間の輪廻のようなもの、それを理屈としてではなく身体で引き受けて生きてきた人たちの物語があるように思う。

            

 ムツさん夫妻は、かつてはそれなりの需要があり、夫妻で耕せる能力があった斜面の段々畑を、もはや放棄せざるを得なくなる。その際に一念発起したのが、山から借りた土地を山に返すにあたって、そのままでは申し訳ないからとその畑のあとに花咲く樹々を植えてゆくことだっだ。その数、なんと1万本超!という。

 その活動は、自分の耕地にとどまらず、その集落周辺にまで及ぶ。レンギョウ、ユキヤナギ、ハナモモ、ツバキ、アジサイ、各種のサクラ、モミジと場所に応じてそれらを植え続ける。それらの開花は、何百年と自然と闘ってここを支配下に置いた人間が、もはやそれを維持できなくなって山を去ること、同時に自分たちがその生を終えること、それらの事実をその場所に刻印する儀式ともいえる。

            

 山を去り、自分の生を終えること、それは同時に何百年と続いたこの集落の歴史を閉じ、すべてを自然に返すということだが、ムツさんをはじめ、集落の人たちは皆、その思いをどこかに抱いて生きている。

 イノシシに自分の畑を荒らされたムツさんは、イノシシは可愛そうだという。それをいぶかった監督兼カメラマンの百崎の問いに、彼女は、ずーっと以前から人間はここで炭を焼いて広葉樹を絶やし、その跡に杉を植えてきた。しかし、広葉樹と違って杉はイノシシの食を満たすことはない、だからイノシシは人里に降りてくるのだと説明する。イノシシと自然の循環を断ったのは、自分たち人間だから、可愛そうなのはイノシシの方だというわけだ。

 ここには、自然を支配し続けた営みが、もう終わりに近づいているという悟りのようなものがある。だから、電流を流してイノシシを駆逐しようという発想はもはや微塵もない。

            

 先に見た、耕作地を山に返すための花の植樹といい、このイノシシのエピソードといい、ここには自然との共生という普通のスケールではなく、人間と自然の葛藤の歴史を踏まえ、その終焉を自らの営みとして引き受けようとするいわば大きな輪廻の実践者ともいうべき覚悟がある。
 もちろんそれは、私が勝手に読み取ったモノで、ここに登場する山の民はそれを言葉で語ることはない。

 映画は、ここに登場した人々がすべてこの世を去り、集落が廃村になったことを告げる。しかし、家々はコストをかけて取り壊すまでもないと残る。そして、急斜面を登るつづら折れの道、その道に沿った集落の家々を支えている立派な石垣などが残る。しかし、そこを行き来する住人はもはやいない。

            

 しかし、ムツさんが植えた樹々の花々は、季節を違えず咲き誇る。花に埋もれたかのような集落のドローンによる映像はじつに爽快で美しい。
 まさに、「ひとはいさ 心もしらずふるさとは・・・・」である。
 カメラは、けもの道のような斜面の道を登りつめる在りし日のムツさんの後ろ姿を追い、その姿が曲がって消えるところでフェイドアウトし、映画は終わる。

 

 

 

 

 


コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (花てぼ)
2020-08-06 16:45:33
映画化されていたのですね。この写真を見るだけで、あの目を細めた口をすぼめて話すむつばあさんを思い出すと、もう涙が出てきます。
芯が強くて優しくて人間的に優れていた彼女だけではなくその村の人たちの表情が自然と浮かびます。
うちでは、テレビで何回か放映されていたのを録画しています。
最初の頃、あの里を訪ねてみたいねと言っていながら、ついに亡くなられてしまいました。
また今録画をみてみたくなりました。
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Unknown (六文銭)
2020-08-06 17:13:58
>花てぼさん
 私は、NHKのドキュで優れたものを作っているときいて、その断片は観たかもしれませんが、全体的なイメージは掴めておらず、今回映画化されたと知って観にいった次第です。
 瀬戸内寂聴さんは、これを観て、「ゲクゲク泣き続けました」といっていますが、私もところどころで胸に迫るものがありました。
 この総集編的な映像では、長い時間撮り続けたがゆえに見えてきたものがけっこうあって、NHKならではの仕事だと思いました。
 ところでそのNHK、先ごろの発表では、合理化のためTVもラジオもチャンネル数を減らすと言っていますが、変に合理化されると、こうした即効的ではないが極めて良質な仕事ができなくなるのではと危惧しています。
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