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軽妙洒脱な会話バトルのコメディ 映画『お名前はアドルフ?』を観る

2020-08-09 11:38:02 | 映画評論

 先般、久々に劇場のスクリーンで映画を観たといった。しかも一日に二本も。
 そして、その内の一本、『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』については先般、このブログに感想を述べた。

 もう一本についても感想を書き記しておこう。
 映画は、『お名前はアドルフ?』、2018年、ドイツの作品である。監督はゼーンケ・ヴォルトマン。
 映画にもかかわらず、ほとんどが限られた室内での5人による会話劇。それもそのはず、もともとはフランスでの舞台劇。その折のタイトルは『名前』もしくは『名付け』。
 「アドルフ」からの連想で、欧米では尽きることがないナチ絡みのシリアスな映画だろうと思う向きもあろうが、それに尽きるものではない。

             

 多少のネタバレはご容赦で(肝心なところは書きません)内容について述べよう。
 ボン郊外の瀟洒な住宅で開かれたパーティ。出席者はこの家の夫妻、シュテファン・ベルガーとエリザベート・ベルガー=ベッチャー(この二人は幼馴染でもある)、それに、エリザベートの弟のトーマスベッチャー。彼は学歴はないが商才にたけていて、財を成している。それに、この3人と幼馴染のレネ・ケーニヒ。職業はオーケストラのクラリネット奏者。少し遅れてくるのが、弟のトーマスの恋人、アンナ。彼女は女優を目指して舞台のオーディションを受けている。

 話の大半は、この5人の会話によるのだが、もうひとり、エリザベートやトーマスの母親・ドロテア・ベッチャーの存在を欠かすわけにはいかない。
 彼女はこのパーティには参加せず、ただリモートで電話をしてくるだけだが、思いがけず重要な役割を背負うこととなる。

           

 さて、映画の邦題の『お名前はアドルフ?』についてであるが、それはトーマスが、恋人アンナとの間にまもなく生まれるだろう子供に、「アドルフ」と名付けると宣言したことによる。
 その前に、その名前を他のメンバーが当てようとする展開があるのだが、それに私は興味をもった。

 それは表音文字の欧米と、表意文字のこの国の名前のイメージに関する問題である。この国では、大半が漢字で名付けられるが、その際、発音もだが、どの文字を用いるかによって名前のイメージ、ないしはそれに込めた名付ける側の意図が表現される。これは、いわゆるキラキラネームを含めてそうであるといえる。

 欧米の表音文字の世界ではどうだろう。確かに、アルファベットから選ばれる文字の配列やその発音に多少の意味作用はあるにせよ、この国の、良子、勇太、和美、義博・・・・などのように直截的ではない。
 ならば、何を参照点としてその名前のイメージを導き出すのか。それはおそらく、同名の、もしくは類似の名前をもった先人の業績に負うところが多いのではあるまいか。

           

 映画の中で展開される名前当てクイズがまさにそれである。ここには西洋史に詳しくないとわからない要因があり、それがくすぐりになっている場面が多いが、私にもわかったのが、「じゃ、ドナルドは?」と誰かが言ったときの総員の反応だった。「は?ドナルド!ハハハハハッ」「ドナルドだって?ハハハハハッ」という嘲笑と哄笑がしばらく続くシーンだ。この映画ができた2018年、そう、あの人はもうアメリカの大統領だった!

 その後、「アドルフ」であることが明かされ、侃々諤々の論争に至るのだが、面白いのは、言い出しっぺのトーマスが決してネオ・ナチなどではなく、むしろ、アドルフという名に染み付いた悪いイメージを、その子を立派に育てることによって払拭するのだといっていることである。

           

 しかし、このアドルフ論争は、じつはこの映画の目指すところではないことがやがてわかるだろう。
 ただし、この論争の過程で、表面を取り繕う物言いがすっかり剥がれてしまった本音バトルは、次第にヒートアップして、意外な事実や告白が引きだされることとなる。
 
 それまで、ほとんど脇役風で、女性への志向を感じさせないところからゲイだと思われていたクラリネット吹きのレネの秘密が明かされ、その意外な恋人が露見して大騒動になるくだり、そしてそれまで、パーティの料理を担当し、居間と台所の間を忙しく行き来していた妻エリザベトが切れて、夫シュテファンを始めとする男性陣への長広舌の批判を展開するくだりなどなどは、ほとんど修羅場を呈するに至る。

           

 上記の不在の母ドロテアを含めて6人の「家族集団」は、この会話バトルの中で、これまでの上辺の均衡が解体され、明かされた事実に直面しなければならないだろう。
 もうこれまでと同じではいられないが、しかしそれを踏まえて新たな出発をする以外にない。

 それを象徴する場面がラストにやってくる。新たな結束は、そう、つねに新しくやってくるもの、新たに生まれくるものによって更新される。
 あわや、アドルフと名付けられようとした子供の生誕である。
 その祝いに、不在だった母も駆けつけ、家族全員が、むろん、新しい生も含めて7人が勢揃いすることになるだろう。
 そして、最後に父になったトーマスによって明かされる「ん?」な事実・・・・。彼は祝いに駆けつけた面々にいう。

           
 
 「いいニュースと悪いニュースがある。いいニュースは母子ともに健康だということだ」そして、少し溜めを作ってからいう。「悪い方のニュースは・・・・」、しかしその目が笑っていることから、決して本当に悪いニュースではないことがみてとれる。
 「悪い方のニュースは・・・・・・・・」と、トーマスは続ける。
 この映画の最後のフレーズとなる言葉、それは見事なオチになるのだが、それは言うまい。料金を払って映画を観たものの特権だ。
 しかし、この映画全体を貫くウィットや意外な展開、それを集約したようなフレーズが用意されていることだけは言っておこう。

           

 映画をよく観る割に俳優の名前などには疎い。
 この映画の出演者についてもよくしらないのだが、それぞれの演技が素晴らしく、単一の場面設定で多少の隙きができそうなものだが、それらが全くみられず、原語に疎い私にも、その会話部分が極めて充実した演技によって流暢に支えられていることがわかり、興味を逸らす箇所がまったくない。

 難しくいえば、破壊とそれによる再統合といったことかもしれないが、そんなことにお構いなく、このファミリィは、相変わらず侃々諤々な会話バトルを続けてゆきそうなのだ。またそうであってほしい。
 底抜けにおもしろかった。


【おまけのトリビア】レネ・ケーニヒ役のユストゥス・フォン・ドホナーニの父は、世界的指揮者・クリストフ・フォン・ドホナーニ。だから、彼にはオケのクラリネット吹きの役がふられたのか。


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