このお宅、その前には道を挟んでちょっとした流れがあり、その流れを挟んで桜並木が広がるという良いロケーションに恵まれている。
さほど広くはないが、こざっぱりと植木などが刈り込まれ、住まうひとの雅なセンスが偲ばれ、花の下を歩く人にも好感を与えていた。
異変が起こり始めたのは何年前からだろうか。さほど前からではない。2,3年前からか。人の手によって保たれていた自然のバランスは、その手が加わらなくなった途端に無政府的に原始の姿へと回帰し始める。
この写真で見ても、かつては最下段のサツキ、その上のツゲの生け垣がきれいに剪定され、その上に、キンモクセイやマツが美しく整えられていた。
その写真の少し左手の門扉の当たりも、かつての面影がまったくない。
たぶん、もはや無人なのだと思うが、もし、住まっている人がいたとしたら、老齢か、あるいは病いのため、もはや手を加える余地がないのだろう。
これ、じつは人ごとではないのだ。私のうちにも、家屋の周辺にささやかな庭のようなものがあり、それなりに手を入れてきたが、最近では、自分自身の加齢で、それも思うに任せぬ。
手作業ではもはや限界と、最近、電動トリマーを買ったのだが、その途端のこの暑さ、熱中症を恐れてちょっとしたテストはしたものの、本格的な使用はしていない。
だから、玄関先の部分はかろうじて見た目を保っているが、側面に回るとやはり八重葎状態である。
このまま私が老いさらばえて、あちらへ逝ったりすれば、わが家もやはりお化け屋敷化することは間違いない。
だから、荒廃した家屋は決して人ごとではないのだ。
数年前、これと似たケースに遭遇している。やはり、さほど広くはないがきちんと手入れをしたお庭をもつお宅があって、狭い道路を挟んで、自家用の菜園があり、その傍らには立派なユズの樹があった。
その辺りは緑が多いので好んで通ったが、ある時、その菜園の手入れをしている私より若い老婦人と挨拶を交わしたのをきっかけに、見かければ簡単な挨拶を交わす間柄になった。
あるときなど、「立派なユズですね」と褒めた私の言葉の中にモノ欲しげな響きを聞き取ったのか、「少しおもちになりますか」とのことで、「じゃあ、お言葉に甘えて」ということになった。私のつもりでは、畑仕事のついでに、2、3個をもいでくれるものと思っていたのだが、「ちょっと待って下さい」と道路を挟んだ自宅へ行き、ハサミを持ってきて実を取り、袋に入れてかなりをいただくことになった。
そういえば柚子の木には棘があり、ハサミでなければ容易にもげないのだった。思わぬ手数をかけてしまった。
後日、私はお礼に絵葉書のようなものをその家のポストに入れておいた。
異変に気づいたのはまず畑の方だった。きちんと畝が設えてあり、季節の野菜が整然と植えられていたその空間が荒れ始めていた。雑草が目立ち、せっかく実った野菜も収穫されないまま、雑草の中に埋もれはじめていた。
道を挟んだお宅の庭園部分にも異変が見られた。
それから、何度もそこを通りかかったが、荒廃は進む一方で、畑はまさに八重葎状態で、複雑に絡まった植物群に占拠され、傍らに立つユズの樹のみが、かつての面影を留めていた。お宅の方も同様に荒れてしまって・・・・。
見るに忍びなので、あまりそこは通らなくなった。
ホット一息ついた感じになったのは、今年の正月だった。近くの鎮守様に初詣の真似事をしたあと、久々にそこを通ってみたら、畑も、自宅の方も完全に取り壊され、更地にされ、売地になっていた。
何かが終わったという寂寥感は拭えないが、あの見るに忍びない荒廃にピリオドが打たれたという意味ではやはりホッとするものがあった。
実はこうしたケースは、しばしば起こっている。地域によっては、数軒に一軒がそうであったり、その候補であるという。
新しい建築物が作られては捨てられる・・・・かつては住居は代々継承されるものだった。しかし、家を中心とした地域社会が崩壊して以来、住居そのものが消耗品となり、捨てられ、放置される対象となった。
私はこの近くで、かつて、かなりの風格をもっていたであろう家が、そのまま廃屋になり、無数の植物群に覆われ、文字通り崩れ落ちる10年ぐらいの過程を見たことがある。
八重葎と関連したもうひとつの光景を載せておこう。
ここはかつて、整然とした家庭菜園であった。休日ともなれば、各区画ごとにそれぞれの家族が思い思いの青果類を育てていた。
それが今はこの有様。それでも、別のアングルから見れば、まだ工作している区画が2,3はあるようだが、大半はご覧のように身の丈三メートルを越える草によって、まるで平地の中のこんもりした森の様な状況をなしている。
思うに、各菜園が施した肥料がたっぷり残留していて、他にも増して種々植物の成長を促しているようだ。それらが鬱蒼としていて、まるでジャングルのようにひとの行く手を阻んでいる。
私たちが見慣れた風景、田園のそれであったり、住宅街のそれは、それぞれ人の営みによって維持されているものであって、それらの一角が崩壊するや、これまで矯めれれていた野生の力を一段と発揮した原始への回帰の過程が始まる。
それが今、地球上のあちこちで起こっているのではないか。
例えば、未だ立ち入りもままならぬフクシマの地だとかで。