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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

敗者の墓標 風景に寄せて

2019-09-28 15:30:39 | 写真とおしゃべり
 あいちトリエンナーレの話といい、関西電力の原発資金還流詐欺といい、権力や金の亡者たちが、悪徳の限りを尽くしているのを見せつけられるのは実に胸糞が悪い。吐き気がしそうだ。
 
 こんなとき、弱い私は逃げ道として自然へと逸れる。
 とはいえ、もはや私たちの前にある自然が、実はこの時代の人工物に過ぎないことは承知しているし、それ自体が、政治や経済と連動し、刻々と変わっているのも事実ではある。

 私のまわりで今急速に増えつつある廃墟廃屋、耕作されず荒れ地となった田地田畑も、経済構造のなかで敗北し、打ち捨てられたものたちの墓標といえるだろう。

 この時期、残され、数少なくなった田の近くを通りかかると、稲わら独特の匂いがする。まだ刈り取られたわけではないが、その匂いが日増しに強くなる。
 遅場米の産地であるこの辺りの稲刈りは、恐らく来週の週末から再来週の週末にかけてであろう。

         
 一方では、いまなお残る田の、歌麿の美人画の生え際のように端正に並んだ稲の風情があるかと思うと、他方には、耕作放棄された田が荒れ放題で広がっている。
 昨秋刈られたその株からのヒコバエが、やはり季節を察知して、もはや収穫されない穂をつけているのも、いくぶん哀れである。

         
 これらを語ったら、近くの都市の友人から、こちらもそうですよとの知らせ。「いずこもおなじあきのゆふぐれ」と返したら、そんな歌に読まれるような風雅なものではありませんとの感想。
 たしかにそうだ。それが経済構造や政治的方針のなかで生みだされた風景であるとしたら、風雅や優雅といってはいられない。
 
 戦後の一時期、「農は国の力」とそやされ、「農協さん」が肥え太った時期があった。主として保守系の政治家の票田でもあった。
 それがいまや、先の日米貿易交渉やTPPにもみられるように、自動車産業のためには農は人身御供に出される運命になっている。

 私たちの観る風景は、まさに人為の結果にほかならない。
コメント
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