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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

愛国者トランプとオボッチャマン小泉のことなど

2019-09-25 11:47:59 | 歴史を考える
 アメリカのトランプ大統領は、開催中の国連総会での演説で、「未来は国際主義者のものではなく、愛国者のものだ!」とぶち上げたという。
 国連を絶対視するものではないが、少なくともこれは、国連でするにもっともふさわしくない演説と言っていいだろう。

 18世紀末に、イマヌエル・カントが、その著、「永遠平和のために」でその理念を語り、20世紀に至ってやっと実現した国際機関を、ちゃぶ台返し同様に、ひっくり返してみせたようなものである。

 同じ演説のなかで、彼は、イランを激しく非難し、北朝鮮や中国を牽制している。しかし、これらの国々もまた、彼のような「愛国」の原理に従っていることに思いが至らないのだあろうか。
 残念ながら私には、それらの国々の愛国に比して、トランプの愛国の方が優れているという理由を見出すことが出来ない。

 相対的にいえば、アメリカのような大国が愛国主義に走ることはより危険であるし、絶対的にいえば、あらゆる愛国主義は世界に厄災をもたらす危険性を孕んでいる。

         
 アメリカの愛国主義は、すでにしてさまざまな波紋をもたらしている。米中貿易摩擦などはまあその相互性からいって一方を非難することはできないが、火をつけたのがトランプであることは経過が示すとおりである。

 さらには、今総会で注目されている地球温暖化対策についていえば、自国産業の利益擁護のため、自ら蚊帳の外へ出て話し合いに加わろうともしない。

 ついでながら、この件に対し、日本国もほとんどアメリカに足並みをそろえているようなのである。今回の国連の分科会が、以前の京都議定書では不十分だとし、それをさらに超えた規制案を検討しようとしている折から、日本はそれに応じようとはしないで、トランプ同様蚊帳の外に出てしまっている。

         
 所轄大臣の小泉オボッチャマンは、「環境問題はセクシーだ」との迷言をその演説の結びに使ったが、その意味を内外の記者団に問われても何ら具体的に答えられず、その演説そのものが単なるパフォーマンスに過ぎないことを自ら暴露してしまった。
 実際のところ、その演説はレトリックのみで、一般的、抽象的、かつ無内容なものに過ぎなかった。彼の「舞い上がり感」のみが独りよがりで空疎な後味として残る代物だった。

 国連を絶対視はしないと書いた。実際のところ、国連が犯した誤り、あるいは罪過は数えようによっては無数にあるかもしれない。また、肝心のところで役に立たなかった事例も数多い。
 にもかかわらず、各国が話し合う唯一の場としてのその存在を無視することは出来ないと思う。

 先に見た、カントが描いた夢の250年後の現実として、いわばその「未完のプロジェクト」として、長い目で見てゆく必要があるのではなかろうか。
 それに対し、トランプのように愛国主義を対置し、それに各国がそれぞれの愛国を掲げて呼応するならば、このプロジェクトは幻として霧散するであろう。

 私はいま、1933年の当時の国際連盟から日本が脱退した折の、松岡洋右の演説を思い出している。日本の立場が、42対1で否定された後、彼は短い脱退の宣言文を読み上げ、その最後を「サヨナラ」と日本語の4文字で結んだ。

 日本の愛国主義者たちは、そしてほとんどのメディアも、それを熱烈に支持したが、その「サヨナラ」の4文字が起点となって、孤立を深めたこの国が、その後、世界の人々や日本人そのものにどのような悲惨をもたらしたかは、歴史の事実がが示すところである。
 最も近頃は、そんなことはなかったことにしようとする風潮が政権筋にまで及んでいるらしいのだが・・・・。

 使い古されてはいるが、サミュエル・ジョンソンが語ったという「愛国者はならず者の最後の隠れ家である」という言葉を言い添えておこう。








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