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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

春みじかし何の不滅のいのちぞとちからある乳を手にたぐらせぬ

2019-03-22 16:32:45 | 映画評論
 人と逢うことになっていたが、それまでの時間つぶしに、いわゆる二番館で、1988年、深作欣二が撮った『華の乱』を観た(大河ドラマの『花の乱』の方ではない)。

 面白かった。絢爛豪華なキャストで、明治末期から大正末期の関東大震災までの、実在した人物たちのありようとその相関関係を描く。
 中心に据えられたのが吉永小百合演じる与謝野晶子。当初、その顔立ちのイメージから晶子にはどうかなという思いがあったが、映画が進むにつれてその不安は払拭される。演出と様式化された美しい画面のせいもある。
 そういえば冒頭の桜舞い散る人力車のシーンから、ちょっとステロタイプかと思うほどの叙情的な絵が続く。

         
 ただし、子沢山の与謝野家や震災の場面はいわば写実的で、その落差は大きいのだが、実際に晶子はそうした落差を生きてきたのだろう。それにしても、与謝野家の子沢山には驚いた。ちゃんと数えなかったが、何やかやで10人ほどもいるのだ。

 そうした晶子を中心に、与謝野鉄幹はむろん、有島武郎、大杉栄、伊藤野枝、沢田正二郎、松井須磨子、島村抱月、山川登美子、波多野明子などなど、同時代のそれぞれ特異な人物たちが相互に絡み合いながら登場する。

       
 それらを演じるのが、緒形拳、松田優作、風間杜夫、石田りえ、石橋蓮司、松坂慶子、蟹江敬三、中田喜子、池上季実子などなど錚々たるキャストだ。これら俳優たちの30年前のきらびやかな風貌が、様式化された画面のなかで輝き、その演じる物語は、あるいはエロスに満ち、あるいは死の希求、タナトスに囚われ、それらがない交ぜになったシンフォニーとして展開される。

 それぞれの人物が興味深く描かれているが、病死した抱月を偲ぶ会での松坂慶子演じる松井須磨子の演技、その狂乱の場のシーンが出色で凄まじい。今は死語となった「新劇」のオーバーなアクションに加えて、ギリシャ悲劇の色彩をももつて、その場に居合わせる他の登場人物たちを圧倒すると同時に、私たち観客にも激しく燃え上がる哀しみの暴発として迫ってくる。

        
 詩歌などの文学、当時としては新しかった演劇表現(だから「新劇」)、それに、ボルシェビズムに駆逐されない前の生き生きとしたアナーキズム、文字通り黒い旗に描かれた「無政府主義」、それらのないまぜが彩った大正がいささか様式化された絵柄として展開される。
 深作監督の演出は歯切れがよくて淀むところがない。

       
 思うにこの時代は、文明開化でもたらされた近代化の日本的な展開を受けて、それらを開けの方向に向かわせることができるのか、あるいは、ある種閉鎖的なものへと繋ぎ止められてしまうのかの、明暗を分ける過程であったような気がする。大正デモクラシーとは、そうしたせめぎあいの上に垣間見えた、もともとアンビバレンツな花でしかなかったのではないか。
 しかし、大杉栄の惨殺が明示するように、それは閉塞への道を余儀なくされて散るのであった。

       
 映画では描かれていないが、昭和の初期は、いわゆるブルジョア文化そのものが萎縮すると同時に、左翼の運動もソ連のボルシェビズムに呼応し、硬直した「正当左翼=スターリニズム」に一本化されてゆく過程であったように思う。
 それはもはや、1945年の大破局へと向かう不可避の過程でもあった。

       
 晶子とその周辺の愛を巡る生と死の葛藤は、上に見た時代そのものが内包するエロスとタナトスの絡み合いの突出した表層であったことをこの映画は示唆している。
 滅びを内包した愛のありようは、時として凄惨にも美しい。

【言わずもがな】ラストシーン、震災を超えて生きてゆくことを伺わせる与謝野一家の前向きのシーンは、上述したように、それに続く時代が希望とは無縁であったことを知っているだけにいくぶん違和感があるが、それは映画の外にいる私の感想なのであろう。

【おまけの一言】元号に関心はないが、この平成の終わりに、昭和の終わりに作られた大正の終わりの話を観たことになる。
 
 
コメント
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