小説であれ映画であれ、主人公が窮地に陥って、そこから抜け出ようとしていろいろ試みる言動が、その目論見を裏切って、ますます、より深い窮地に追い込まれてゆくというシチュエーションはよくある。
それらは、喜劇であったり悲劇であったりするのだが、それを読んだり観たりしている私たちは、全体の状況を俯瞰できる立場にいて、その主人公の陥った罠についても予め知っているから、「あ、それはダメだ」とか「こっちを選ぶべきなんだよ」とつい心の中で声援したりするのだが、もちろんそれは彼女、ないし彼には届くことはなく、その言動は悪あがきのように危機を膨らませてゆく。
もっともなかには、何かの拍子でその罠から抜け出すことができ、ハッピー・エンドで終わる場合もある。
しかし、いずれにしても私たち観客は先に見たようにその状況の全体や主人公が陥った罠について予め知っていて、優越感に似た立場からそれを観たり、あまつさえ、その主人公に心のうちでアドヴァイスすら送ることができる。
しかし、この映画においての主人公のそれ、つまり彼が陥った罠、ではなくてThe net=網に関しては、私たちの観客としての視座(=ある種の超越的な視点)をもってしても、主人公の思惑や言動を超えて起こる事態に対して、どんな回答をも用意することができず、ただただともに立ち尽くすしかないだろう。
この映画が前提としている「歴史的、地理的事実」の前には、もはや私たちには、「こうすればいいのに」などと安易に語れない厳然たる事実が存在する。
具体的な点についてネタバレにならない限りで、この映画を紹介しよう。
主人公は分断された朝鮮半島の境界線付近の北側に住む一介の漁師。愛妻と一人娘の家庭をこよなく大切にしている。
漁に出る朝、夫婦のマグワイがある。微笑ましいような状況であるが、これがラストシーンにつながるひとつのポイントとなる。
船を出し網を上げる。魚がかかっていてもう逃げることはできない。そしてその姿こそこの映画の題名そのものなのだ。『The NET 網に囚われた男』。
もう少し書いてもいいだろう。
彼はその船の故障により、南の領域に流れ着いてしまう。しかし、家族思いの彼はそのまま脱北しようなどとは夢にも思わない。懸命に船を修理して戻ろうと思うのだが南側に見つかってしまいソウルへ連行される。
そこには、彼をスパイではないかと疑う熾烈な取り調べが待っていた。その過程は息詰まるようだが、その疑いから逃れようとすればするほど、その言動が彼を更なる深みへと突き落としてゆく。
監視つきでソウルの中心街でいわゆる「泳がせ」が行われたりもする。
彼はそこで、金のために体を売り、故郷へ仕送りをしている女性などに会い、豊かで自由なはずの南の現実にも直面する。
何やかやで結局北へ帰ることができる。
しかしこんどは、北へ帰されたこと自体が北当局のスパイではないかとの疑惑を生み、またもや徹底的で熾烈な取り調べを受ける羽目になる。
ここで瞠目すべきは、北での取り調べが、南でのそれときっちり相似形であることだ。
彼はひょんなことで釈放されるが、南北双方での取り調べや経験は、彼の精神はむろん、その肉体にまで目に見えるトラウマとなって貼り付き、癒えることはない。
そして、これが最後の悲劇を生む。
こう書いてくると、かなり具体的に映画の内容を語ったネタバレのように思われるかもしれないが、しかし、実際に映画をご覧になればこの記述を遥かに上回る内容やシーンが連続して登場し、これぞ映画の表現だと納得されるだろう。
彼がひっかった網(Net)は、一時的には南北双方での具体的な取り調べの過程で、彼が弁明すればするほど絞られてくるそれであるが、さらにマクロな視点で見れば、あるいはその網を網たらしめている状況を見れば、それはこの半島が分断されてあるという事態そのものなのである。
『嘆きのピエタ』や『レッド・ファミリー』などを監督したキム・ギドクの作品であるが、韓国サイドのみならず、南北への相対的な目配りが効いているといえよう。もっとも象徴的なのは、その取り調べのシーンで、先に述べたように南北のそれはほとんど同一なのである。
北は貧しいが、一方の南では自由のうちに格差が広がりつつある状況もちゃんと捉えられている。
さて、これを観る私たち(この場合日本人ということにしようか)が、どっちもどっちだなぁという感想に終わるとしたら、それはある意味、無責任といえるであろう。
上で、彼が囚われたNetはさまざまな具体的できごとであると同時に、南北分断という事態そのものであると述べたが、なぜこの半島が分断されたのかの歴史そのものに、この国・日本は深く関わっているのだ。
1910年以降、この半島は日本に併合され、日本の植民地となった。そして45年の日本の敗戦。東西冷戦の初期の段階での陣取りゲームにとっては、日本の占領地であったこの半島をどちらがどう取るかは相互に格好の獲物だったわけである。
かくして50年に始まった朝鮮戦争は、独立した一つの国を夢見た半島の人びとの夢を無残に打ち砕き、分断国家が出来上がったのだった。
日本の敗戦時、この半島が日本の支配下ではなく、独立した一つの国としてあったとしたら、その体制がどうであれ、今日のように分断されることはなかったろうとはじゅうぶん考えられる。
だから、主人公は南北分断という地理的なNetと同時に、日本支配に始まり、分断へと至った歴史的なNetにも絡め取られていたというわけだ。私たちが上から目線で、「どっちもどっち」といった感想で済ませることはできないと思う所以だ。
彼が絡め取られた網=Netは、敵と味方を峻別し相互に憎悪の応酬がなされる状況のなかに張り巡らされたものだった。
そしてそうした憎悪と排除の体制はいま、欧米においての排外主義者・極右政党の伸長、さらにはこの国においての極右・安倍政権下での教育勅語拝跪のカルト思想の蔓延のなかで、一般化しようとしている。
従っていつなんどき、私たちもこうしたアポリアであるNetに絡め取られるかも知れないのだ。いま、強硬に成立が目指されている共謀罪も、そうしたNetたりうるからこそ危険なのだ。
まあ、そんな屁理屈はさておき、十分ひきつけるものをもった映画である。いささか疲れていて、途中で眠ったりするかもという状態で観たのだが、それは杞憂で、最初から最後まで、身を乗り出すようにして画面に釘付けにされたのだった。
繰り返すが、ネタバレをあまり書かない主義の私にしてはまあまあ書いたほうだ。しかし、ここで書いたようなことはほんの取っかかりに過ぎず、実際の映画はさらに具体的で強烈なシーンを映像化していることをいい添えておこう。
それらは、喜劇であったり悲劇であったりするのだが、それを読んだり観たりしている私たちは、全体の状況を俯瞰できる立場にいて、その主人公の陥った罠についても予め知っているから、「あ、それはダメだ」とか「こっちを選ぶべきなんだよ」とつい心の中で声援したりするのだが、もちろんそれは彼女、ないし彼には届くことはなく、その言動は悪あがきのように危機を膨らませてゆく。
もっともなかには、何かの拍子でその罠から抜け出すことができ、ハッピー・エンドで終わる場合もある。
しかし、いずれにしても私たち観客は先に見たようにその状況の全体や主人公が陥った罠について予め知っていて、優越感に似た立場からそれを観たり、あまつさえ、その主人公に心のうちでアドヴァイスすら送ることができる。
しかし、この映画においての主人公のそれ、つまり彼が陥った罠、ではなくてThe net=網に関しては、私たちの観客としての視座(=ある種の超越的な視点)をもってしても、主人公の思惑や言動を超えて起こる事態に対して、どんな回答をも用意することができず、ただただともに立ち尽くすしかないだろう。
この映画が前提としている「歴史的、地理的事実」の前には、もはや私たちには、「こうすればいいのに」などと安易に語れない厳然たる事実が存在する。
具体的な点についてネタバレにならない限りで、この映画を紹介しよう。
主人公は分断された朝鮮半島の境界線付近の北側に住む一介の漁師。愛妻と一人娘の家庭をこよなく大切にしている。
漁に出る朝、夫婦のマグワイがある。微笑ましいような状況であるが、これがラストシーンにつながるひとつのポイントとなる。
船を出し網を上げる。魚がかかっていてもう逃げることはできない。そしてその姿こそこの映画の題名そのものなのだ。『The NET 網に囚われた男』。
もう少し書いてもいいだろう。
彼はその船の故障により、南の領域に流れ着いてしまう。しかし、家族思いの彼はそのまま脱北しようなどとは夢にも思わない。懸命に船を修理して戻ろうと思うのだが南側に見つかってしまいソウルへ連行される。
そこには、彼をスパイではないかと疑う熾烈な取り調べが待っていた。その過程は息詰まるようだが、その疑いから逃れようとすればするほど、その言動が彼を更なる深みへと突き落としてゆく。
監視つきでソウルの中心街でいわゆる「泳がせ」が行われたりもする。
彼はそこで、金のために体を売り、故郷へ仕送りをしている女性などに会い、豊かで自由なはずの南の現実にも直面する。
何やかやで結局北へ帰ることができる。
しかしこんどは、北へ帰されたこと自体が北当局のスパイではないかとの疑惑を生み、またもや徹底的で熾烈な取り調べを受ける羽目になる。
ここで瞠目すべきは、北での取り調べが、南でのそれときっちり相似形であることだ。
彼はひょんなことで釈放されるが、南北双方での取り調べや経験は、彼の精神はむろん、その肉体にまで目に見えるトラウマとなって貼り付き、癒えることはない。
そして、これが最後の悲劇を生む。
こう書いてくると、かなり具体的に映画の内容を語ったネタバレのように思われるかもしれないが、しかし、実際に映画をご覧になればこの記述を遥かに上回る内容やシーンが連続して登場し、これぞ映画の表現だと納得されるだろう。
彼がひっかった網(Net)は、一時的には南北双方での具体的な取り調べの過程で、彼が弁明すればするほど絞られてくるそれであるが、さらにマクロな視点で見れば、あるいはその網を網たらしめている状況を見れば、それはこの半島が分断されてあるという事態そのものなのである。
『嘆きのピエタ』や『レッド・ファミリー』などを監督したキム・ギドクの作品であるが、韓国サイドのみならず、南北への相対的な目配りが効いているといえよう。もっとも象徴的なのは、その取り調べのシーンで、先に述べたように南北のそれはほとんど同一なのである。
北は貧しいが、一方の南では自由のうちに格差が広がりつつある状況もちゃんと捉えられている。
さて、これを観る私たち(この場合日本人ということにしようか)が、どっちもどっちだなぁという感想に終わるとしたら、それはある意味、無責任といえるであろう。
上で、彼が囚われたNetはさまざまな具体的できごとであると同時に、南北分断という事態そのものであると述べたが、なぜこの半島が分断されたのかの歴史そのものに、この国・日本は深く関わっているのだ。
1910年以降、この半島は日本に併合され、日本の植民地となった。そして45年の日本の敗戦。東西冷戦の初期の段階での陣取りゲームにとっては、日本の占領地であったこの半島をどちらがどう取るかは相互に格好の獲物だったわけである。
かくして50年に始まった朝鮮戦争は、独立した一つの国を夢見た半島の人びとの夢を無残に打ち砕き、分断国家が出来上がったのだった。
日本の敗戦時、この半島が日本の支配下ではなく、独立した一つの国としてあったとしたら、その体制がどうであれ、今日のように分断されることはなかったろうとはじゅうぶん考えられる。
だから、主人公は南北分断という地理的なNetと同時に、日本支配に始まり、分断へと至った歴史的なNetにも絡め取られていたというわけだ。私たちが上から目線で、「どっちもどっち」といった感想で済ませることはできないと思う所以だ。
彼が絡め取られた網=Netは、敵と味方を峻別し相互に憎悪の応酬がなされる状況のなかに張り巡らされたものだった。
そしてそうした憎悪と排除の体制はいま、欧米においての排外主義者・極右政党の伸長、さらにはこの国においての極右・安倍政権下での教育勅語拝跪のカルト思想の蔓延のなかで、一般化しようとしている。
従っていつなんどき、私たちもこうしたアポリアであるNetに絡め取られるかも知れないのだ。いま、強硬に成立が目指されている共謀罪も、そうしたNetたりうるからこそ危険なのだ。
まあ、そんな屁理屈はさておき、十分ひきつけるものをもった映画である。いささか疲れていて、途中で眠ったりするかもという状態で観たのだが、それは杞憂で、最初から最後まで、身を乗り出すようにして画面に釘付けにされたのだった。
繰り返すが、ネタバレをあまり書かない主義の私にしてはまあまあ書いたほうだ。しかし、ここで書いたようなことはほんの取っかかりに過ぎず、実際の映画はさらに具体的で強烈なシーンを映像化していることをいい添えておこう。