先般の三連休の初日(土曜日)、東京からわざわざ逢いに来てくれたNさんと名古屋の街で過ごした。
Nさんとは、あとで述べるように、彼女にとっても私にとっても、エポックメーキングなある事件を通じて、近親感は持っていたが、それはネット上でのことであり、リアルに逢うのははじめてだった。
ところで、そうしてわざわざ逢いに来てくれるNさんと私の関係であるが、これをちゃんと説明するのはなかなか骨が折れるのである。
よく漫才や落語などで、「僕の兄貴の連れ合いの従兄弟の会社の上司のお孫さんの家庭教師をやっていた人の斜め向かいに住んでいた人のところへ居候していたAさん」などというわけがわかったようなわからないような人物紹介が出てくる。
以下にNさんとの関係をかいつまんで述べるのだが、それが上のようにかなり煩雑なのである。
私の友人に、中国は山西省の山村に住まい、そこをベースにすぐる日中戦争経験者(80代から90代の人が対象)からの聞き取りを冊子にまとめている人がいる。いわゆる、オーラルヒストリーともいうべきものだが、正史には書かれないそこで生きた人たちの生の記録として貴重なものだと思っている。
彼女・Oさんは私の旧知の人なのだが、なぜそんなところに居を構え、そんなことをしているのかに関しては、これまたとても面白いエピソードがあるのだが、この際は割愛せざるを得ない。
いまから8年近く前になるが、その彼女がそれまでの聞き取りの結果をまとめた本を出版することとなった(『記憶にであうー中国黄土高原 紅棗がみのる村から』未来社)。
その書評を依頼されたのが私だった。私の紹介文は「図書新聞」に掲載された。それを読んでくれた図書新聞取締役相談役であった矢口進也氏(2011年没)が、その本をフィラデルフィア在住の大連中学時代の同級生トーマス・ソン(宋)さんに紹介し、トーマスさんはそれを読み、著者のOさんのブログにコメンテーターとして登場するようになった。
そのブログは、旧知の私もまた常連としてコメントを付けており、いつしか横レスでトーマスさんと私という関係が出来上がっていった。私はまた、トーマスさんのブログの常連にもなった。
トーマスさんが私を気に入ってくれたのは、私が年の功で戦中戦後の状況をある程度リアルにわかることだった。「そうか、君はこれをわかるんだ」と何度もいわれた。
それは上に述べた大連中学時代の同級生、矢口進也氏を失って以後の、日本における彼の格好の話し相手として私が登場したということだったのかもしれない。
ところで、このトーマスさんという人が大変な人だった。朝鮮王朝の末裔の一人で、日本による併合後に生まれ、東京、大連などでで少年時代を過ごした後、日本の敗戦で一度は朝鮮半島へ帰るのだが、やはりそこが安住の地ではないと判断した両親の勧めで単身渡米し、以降、アメリカの市民権を取得し、大学図書館の管理者などを経由し、老後はフィラデルフィアで過ごすというそれだけでゆうに一冊の書をなす数奇な生涯を送ったひとだった。
ところでそのトーマスさんだが、メールのやり取りだけでは物足りないのか、よく私宛に電話をくれた。そのそれぞれが30分前後という長電話であったが、そこで語られた彼の経歴はとても面白く、時にはメモをとったりもした。そして、とても残念で劇的だったのは、トーマスさんは私とのそうした電話中に発作を起こして倒れ、それから幾ばくもしないで亡くなってしまたのだった。2014年12月のことだった。
私は、トーマスさんが電話で話してくれたこと、そのブログを読み返して知ったことなどなどに私自身の感慨を加えて、翌15年の春に、トーマスさんの小伝を同人誌に書いたことがある。
ここで、私を訪ねてくれたNさんに話を戻そう。このNさん、お連れ合いやご自分のお仕事の関係でアメリカへはよく出かけ、フィラデルフィアに滞在中にトーマスさんとお知り合いになり、親交を深められたとのことで、もちろん私よりもずっと古くから、深いお付き合いをしてこられた人である。
そんな関係で、トーマスさんが亡くなられた折、その葬儀に有志で供花を捧げようということとなり、その取りまとめをしてくれたのがNさんだった。
そんな関係で、私が上に書いたトーマスさんに関する小文を綴った同人誌を彼女に送ったのをきっかけに、FBでも知り合ったりしてお付き合いは継続してきたのだが、そのNさんがわざわざ名古屋まで来てくれるということで、驚き、かつ感激した次第なのだ。
これがNさんと私の関係であるが、冒頭近くに書いたように、漫才や落語でいわれるような複雑な縁での知り合いだから、私の拙筆でその関係が了解してもらえたかどうかは不安である。
さて、当日のことだが、せっかく名古屋まで来てくれるのだから、ある程度ちゃんとエスコートしようとする私の目論見は始めっから外れた。
先ず、名古屋駅のタワーのてっぺんの展望台から名古屋の全貌を観てもらおうと、エレベーターを探して51階まで登ったのだが、ガ~ン、その展望台がないのだ。かつて、360度名古屋を見ることができたスポットは、各店舗が立ち並ぶ「普通の階」になっていて、なんにも観ることができないのだ。
諦めて、基幹バスに乗ろうとしてバスターミナルに向かったのだが、これがない!またしてもガ~ンだ。
JRゲートタワービル建設に伴っていまはそれ自体がなくなってしまっているのだ。
なんのことはない、私自身が名古屋駅前の再開発に完全に置いてゆかれているのだ。古い情報による記憶はことごとくに外れた。
しかし、このバスのりば探しは結局、名古屋市内の観光スポットをガイド付きでめぐる、その名も「メーグルバス」に出会うことになり、結果良ければ全て良しということに。
あちこち行くよりもと選んだ行き先は徳川美術館。常設展の他には史上最高の嫁入り道具展、並びに雛飾り展。その華美な道具の数々、そしてその精巧なミニチュア。
いい意味でのスノビズムが満開だ。実用性を超越したこの装飾過多は人間の存在そのものがひとつの余剰であることを示して余りあるようだ。
ひと通り観たあと、園内の宝善亭で季節限定の雛御膳をいただく。ちょうどいい量で、美味しい。しかも価格はリーゾナブルだ。
その後、名古屋の中心街へ出てお茶をしながら話したあと、Nさんを名古屋駅へ送って別れた。
トーマスさんを巡る話題も多かったが、お互いネットで知る限りの間柄だから自己紹介的な話も多く、それらに枝葉がついて話題が尽きることがなかった。
せっかく来てもらったのに稚拙な案内で申し訳なかったが、私にはとてもいい時間だった。
その後、土曜日のみ営業している今池の店に立ち寄り、かねてからの顔見知りたちと出会い、情報交換などけっこう話し込んで帰宅。
よく歩いたもので、歩数計は11,250歩を示していた。
Nさんとは、あとで述べるように、彼女にとっても私にとっても、エポックメーキングなある事件を通じて、近親感は持っていたが、それはネット上でのことであり、リアルに逢うのははじめてだった。
ところで、そうしてわざわざ逢いに来てくれるNさんと私の関係であるが、これをちゃんと説明するのはなかなか骨が折れるのである。
よく漫才や落語などで、「僕の兄貴の連れ合いの従兄弟の会社の上司のお孫さんの家庭教師をやっていた人の斜め向かいに住んでいた人のところへ居候していたAさん」などというわけがわかったようなわからないような人物紹介が出てくる。
以下にNさんとの関係をかいつまんで述べるのだが、それが上のようにかなり煩雑なのである。
私の友人に、中国は山西省の山村に住まい、そこをベースにすぐる日中戦争経験者(80代から90代の人が対象)からの聞き取りを冊子にまとめている人がいる。いわゆる、オーラルヒストリーともいうべきものだが、正史には書かれないそこで生きた人たちの生の記録として貴重なものだと思っている。
彼女・Oさんは私の旧知の人なのだが、なぜそんなところに居を構え、そんなことをしているのかに関しては、これまたとても面白いエピソードがあるのだが、この際は割愛せざるを得ない。
いまから8年近く前になるが、その彼女がそれまでの聞き取りの結果をまとめた本を出版することとなった(『記憶にであうー中国黄土高原 紅棗がみのる村から』未来社)。
その書評を依頼されたのが私だった。私の紹介文は「図書新聞」に掲載された。それを読んでくれた図書新聞取締役相談役であった矢口進也氏(2011年没)が、その本をフィラデルフィア在住の大連中学時代の同級生トーマス・ソン(宋)さんに紹介し、トーマスさんはそれを読み、著者のOさんのブログにコメンテーターとして登場するようになった。
そのブログは、旧知の私もまた常連としてコメントを付けており、いつしか横レスでトーマスさんと私という関係が出来上がっていった。私はまた、トーマスさんのブログの常連にもなった。
トーマスさんが私を気に入ってくれたのは、私が年の功で戦中戦後の状況をある程度リアルにわかることだった。「そうか、君はこれをわかるんだ」と何度もいわれた。
それは上に述べた大連中学時代の同級生、矢口進也氏を失って以後の、日本における彼の格好の話し相手として私が登場したということだったのかもしれない。
ところで、このトーマスさんという人が大変な人だった。朝鮮王朝の末裔の一人で、日本による併合後に生まれ、東京、大連などでで少年時代を過ごした後、日本の敗戦で一度は朝鮮半島へ帰るのだが、やはりそこが安住の地ではないと判断した両親の勧めで単身渡米し、以降、アメリカの市民権を取得し、大学図書館の管理者などを経由し、老後はフィラデルフィアで過ごすというそれだけでゆうに一冊の書をなす数奇な生涯を送ったひとだった。
ところでそのトーマスさんだが、メールのやり取りだけでは物足りないのか、よく私宛に電話をくれた。そのそれぞれが30分前後という長電話であったが、そこで語られた彼の経歴はとても面白く、時にはメモをとったりもした。そして、とても残念で劇的だったのは、トーマスさんは私とのそうした電話中に発作を起こして倒れ、それから幾ばくもしないで亡くなってしまたのだった。2014年12月のことだった。
私は、トーマスさんが電話で話してくれたこと、そのブログを読み返して知ったことなどなどに私自身の感慨を加えて、翌15年の春に、トーマスさんの小伝を同人誌に書いたことがある。
ここで、私を訪ねてくれたNさんに話を戻そう。このNさん、お連れ合いやご自分のお仕事の関係でアメリカへはよく出かけ、フィラデルフィアに滞在中にトーマスさんとお知り合いになり、親交を深められたとのことで、もちろん私よりもずっと古くから、深いお付き合いをしてこられた人である。
そんな関係で、トーマスさんが亡くなられた折、その葬儀に有志で供花を捧げようということとなり、その取りまとめをしてくれたのがNさんだった。
そんな関係で、私が上に書いたトーマスさんに関する小文を綴った同人誌を彼女に送ったのをきっかけに、FBでも知り合ったりしてお付き合いは継続してきたのだが、そのNさんがわざわざ名古屋まで来てくれるということで、驚き、かつ感激した次第なのだ。
これがNさんと私の関係であるが、冒頭近くに書いたように、漫才や落語でいわれるような複雑な縁での知り合いだから、私の拙筆でその関係が了解してもらえたかどうかは不安である。
さて、当日のことだが、せっかく名古屋まで来てくれるのだから、ある程度ちゃんとエスコートしようとする私の目論見は始めっから外れた。
先ず、名古屋駅のタワーのてっぺんの展望台から名古屋の全貌を観てもらおうと、エレベーターを探して51階まで登ったのだが、ガ~ン、その展望台がないのだ。かつて、360度名古屋を見ることができたスポットは、各店舗が立ち並ぶ「普通の階」になっていて、なんにも観ることができないのだ。
諦めて、基幹バスに乗ろうとしてバスターミナルに向かったのだが、これがない!またしてもガ~ンだ。
JRゲートタワービル建設に伴っていまはそれ自体がなくなってしまっているのだ。
なんのことはない、私自身が名古屋駅前の再開発に完全に置いてゆかれているのだ。古い情報による記憶はことごとくに外れた。
しかし、このバスのりば探しは結局、名古屋市内の観光スポットをガイド付きでめぐる、その名も「メーグルバス」に出会うことになり、結果良ければ全て良しということに。
あちこち行くよりもと選んだ行き先は徳川美術館。常設展の他には史上最高の嫁入り道具展、並びに雛飾り展。その華美な道具の数々、そしてその精巧なミニチュア。
いい意味でのスノビズムが満開だ。実用性を超越したこの装飾過多は人間の存在そのものがひとつの余剰であることを示して余りあるようだ。
ひと通り観たあと、園内の宝善亭で季節限定の雛御膳をいただく。ちょうどいい量で、美味しい。しかも価格はリーゾナブルだ。
その後、名古屋の中心街へ出てお茶をしながら話したあと、Nさんを名古屋駅へ送って別れた。
トーマスさんを巡る話題も多かったが、お互いネットで知る限りの間柄だから自己紹介的な話も多く、それらに枝葉がついて話題が尽きることがなかった。
せっかく来てもらったのに稚拙な案内で申し訳なかったが、私にはとてもいい時間だった。
その後、土曜日のみ営業している今池の店に立ち寄り、かねてからの顔見知りたちと出会い、情報交換などけっこう話し込んで帰宅。
よく歩いたもので、歩数計は11,250歩を示していた。