前回は、岐阜県の瑞浪市に全国の原発からでた使用済みの核燃料棒の最終処分場が出来るのではないかという問題を書きました。つまり、トイレなきマンションといわれた全国の原発の、共同トイレを一挙に引き受ける最終処分場(といっても穴を掘って埋めるだけという原始的なものですが)になる可能性があるということでした。
その根拠は、瑞浪市の地下には、巨大な立坑と地下1,000mの地点に、4万本の使用済みの核燃料棒を保管する空間がすでに作られているということです。前回載せたその写真をもう一度載せましょう。
でもこれは、現段階ではその実現の可能性に過ぎません。というのはこの巨大な施設は、日本原子力研究開発機構の超深層研究所が、実際に使用済みの核燃料棒の最終処分場を設置した場合の諸条件についての「研究を行っているだけ」の場所なのです。
岐阜県(当時の知事は梶原拓)と瑞浪市は、「研究だけ」という条件付きで20年間の土地使用を認めました。その着工は2003年で、2022年には「研究」を終了し、すべてを埋め戻して瑞浪市へ返還することになっています。
でもここへ来て、何やら雲行きが怪しくなってきているのです。
まずは、2022年の返還に対して、その延期が申し入れられているようなのです。それとこれはオフレコ発言ですが、資源エネルギー庁の長官は「先のことはわからない」と本音を漏らしているようなのです。
同様計画が進む幌延でのトラクターデモ
ここから見えるものは、「研究だけ」とはいえ、現実に4万本の使用済みの核燃料棒の保管スペースが作られているのだから、そのまま本番の貯蔵所にしてしまおうとする方針です。
これに対し、岐阜県と瑞浪市は(表面上は)あくまでも20年を経過した後の返還を求めているのですが、どこまでが本気なのかわからないのです。
というのは、この「研究だけ」の施設のために、2002年以降、地方振興交付金の名ですでに総額にして280億円の金額がばらまかれているのです。
内訳は、瑞浪市に年5.3億円、隣接の土岐市に3.5億円、恵那市に1.9億円、御嵩町に9千万円などなどと10箇所の市町村に及んでいます。
研究のためだけなら、なぜ近隣の市町村にまで交付金が行き渡るのでしょうか。
ここには、各原発が、札束で横面を張るようにしてできてきたのと同じ構図が見られます。
地方自治が財政難の折から、いま支給されているものが停止されるのも痛手ですが、そうしたなか、現在支給している額を2倍、3倍、あるいはそれ以上にに増額するといわれたとき、はたして「No!」といえるのでしょうか。
「研究だけ」が「本番」に横滑りする可能性が大きいし、フクシマの被害者目線からの報道などがドンドン減ってきている現在、その危惧は次第に真実味を帯びつつあるといわねばなりません。
ようするに、すでに外堀が埋められているといってもいいのです。
私がこれらの事実を赤裸々に知ったのは、青森県の六ケ所へ12年間住み込んだ写真家、映画監督の島田恵さんの第二作ドキュメンタリー、『チャルカ』の上映会と監督自身のトークを通じてでした。
映画は大上段から原発の是非を断じるものではなく、瑞浪同様に最終処理場の候補地になっている北海道の幌延に暮らす人々、フィンランドですでに建設が進む最終処理場の洞窟の模様、フランスにおけるそれの賛成派・反対派の各意見をほぼニュートラルに捉えて、現在の世界で原発がどんな相貌で表れているのかを示し、私たちにその判断を委ねるものでした。
ところで、使用済みの核燃料棒が無害になるまでには、何十万単位の年月の埋蔵が必要です。すでにその地下貯蔵庫が作られつつあるフィンランドのオンカロの状況などがその内部の映像とともに紹介されますが、ここの地層は、全てが太平洋プレートの先端にあり常に大変動が予測される日本と違って、何億年もの間地殻がまったく変動していない岩盤地帯なのだそうです。
それでも、その施設担当者自身が不安を示しています。
その一つは、笑い話のようなことなのですが、何万年もさきの人類に、「ここは危険だから掘り返してはいけない」ということをどうやって知らせるかということです。
私たちの言葉や記号はどんどん変化してゆきます。その結果として、何千年か前のことばや記号、アイコンなどが意味するものを理解することができないのです。
日本で言うなら、縄文式の土偶やその後の弥生時代の銅鐸の用途などもわかっていないのです。
この話は、現今の科学技術で解決しないものを無責任に採用し、そのツケを未来の人類に丸投げにするという事実を象徴しています。
フクシマは、いわゆる安全神話を覆しました、その教訓は、自然の異変は人の想像力を常に凌駕するということです。どんなに緻密に計算された事態でも、自然自体は人類がいまだ知らない別の基準によって変動しうるのです。
それらを念頭に置くとき、幌延ともども、瑞浪の核の集合かつ共同トイレ化に賛成するわけには行きません。そして、そうした現今の人の知恵の及ばない側面を多分にもつ原発というシステムについて再考すべきだと思うのです。
その根拠は、瑞浪市の地下には、巨大な立坑と地下1,000mの地点に、4万本の使用済みの核燃料棒を保管する空間がすでに作られているということです。前回載せたその写真をもう一度載せましょう。
でもこれは、現段階ではその実現の可能性に過ぎません。というのはこの巨大な施設は、日本原子力研究開発機構の超深層研究所が、実際に使用済みの核燃料棒の最終処分場を設置した場合の諸条件についての「研究を行っているだけ」の場所なのです。
岐阜県(当時の知事は梶原拓)と瑞浪市は、「研究だけ」という条件付きで20年間の土地使用を認めました。その着工は2003年で、2022年には「研究」を終了し、すべてを埋め戻して瑞浪市へ返還することになっています。
でもここへ来て、何やら雲行きが怪しくなってきているのです。
まずは、2022年の返還に対して、その延期が申し入れられているようなのです。それとこれはオフレコ発言ですが、資源エネルギー庁の長官は「先のことはわからない」と本音を漏らしているようなのです。
同様計画が進む幌延でのトラクターデモ
ここから見えるものは、「研究だけ」とはいえ、現実に4万本の使用済みの核燃料棒の保管スペースが作られているのだから、そのまま本番の貯蔵所にしてしまおうとする方針です。
これに対し、岐阜県と瑞浪市は(表面上は)あくまでも20年を経過した後の返還を求めているのですが、どこまでが本気なのかわからないのです。
というのは、この「研究だけ」の施設のために、2002年以降、地方振興交付金の名ですでに総額にして280億円の金額がばらまかれているのです。
内訳は、瑞浪市に年5.3億円、隣接の土岐市に3.5億円、恵那市に1.9億円、御嵩町に9千万円などなどと10箇所の市町村に及んでいます。
研究のためだけなら、なぜ近隣の市町村にまで交付金が行き渡るのでしょうか。
ここには、各原発が、札束で横面を張るようにしてできてきたのと同じ構図が見られます。
地方自治が財政難の折から、いま支給されているものが停止されるのも痛手ですが、そうしたなか、現在支給している額を2倍、3倍、あるいはそれ以上にに増額するといわれたとき、はたして「No!」といえるのでしょうか。
「研究だけ」が「本番」に横滑りする可能性が大きいし、フクシマの被害者目線からの報道などがドンドン減ってきている現在、その危惧は次第に真実味を帯びつつあるといわねばなりません。
ようするに、すでに外堀が埋められているといってもいいのです。
私がこれらの事実を赤裸々に知ったのは、青森県の六ケ所へ12年間住み込んだ写真家、映画監督の島田恵さんの第二作ドキュメンタリー、『チャルカ』の上映会と監督自身のトークを通じてでした。
映画は大上段から原発の是非を断じるものではなく、瑞浪同様に最終処理場の候補地になっている北海道の幌延に暮らす人々、フィンランドですでに建設が進む最終処理場の洞窟の模様、フランスにおけるそれの賛成派・反対派の各意見をほぼニュートラルに捉えて、現在の世界で原発がどんな相貌で表れているのかを示し、私たちにその判断を委ねるものでした。
ところで、使用済みの核燃料棒が無害になるまでには、何十万単位の年月の埋蔵が必要です。すでにその地下貯蔵庫が作られつつあるフィンランドのオンカロの状況などがその内部の映像とともに紹介されますが、ここの地層は、全てが太平洋プレートの先端にあり常に大変動が予測される日本と違って、何億年もの間地殻がまったく変動していない岩盤地帯なのだそうです。
それでも、その施設担当者自身が不安を示しています。
その一つは、笑い話のようなことなのですが、何万年もさきの人類に、「ここは危険だから掘り返してはいけない」ということをどうやって知らせるかということです。
私たちの言葉や記号はどんどん変化してゆきます。その結果として、何千年か前のことばや記号、アイコンなどが意味するものを理解することができないのです。
日本で言うなら、縄文式の土偶やその後の弥生時代の銅鐸の用途などもわかっていないのです。
この話は、現今の科学技術で解決しないものを無責任に採用し、そのツケを未来の人類に丸投げにするという事実を象徴しています。
フクシマは、いわゆる安全神話を覆しました、その教訓は、自然の異変は人の想像力を常に凌駕するということです。どんなに緻密に計算された事態でも、自然自体は人類がいまだ知らない別の基準によって変動しうるのです。
それらを念頭に置くとき、幌延ともども、瑞浪の核の集合かつ共同トイレ化に賛成するわけには行きません。そして、そうした現今の人の知恵の及ばない側面を多分にもつ原発というシステムについて再考すべきだと思うのです。
坑道の映像とクラシック音楽がよくマッチしています。
原発により高々50年間の電力を作り出した残りの廃棄物を、少なくとも数万年以上保管するはるか以前に、アメリカより原発規制のゆるい日本で大きな利益を得た日本の電力会社は消滅しているはずです。
それにしても民間企業の営利事業で作り出した廃棄物の処理を、税金で賄う理屈がいまだに理解できません(その正邪を棚上げしたうえでも)。
いずれにしても一番大事なのは、無責任な付けを後世の生物に押し付けないことだと私も思います。
しかし、自然の力は計りきれないものがあります。ですから、その場所が丈夫かやわいかではなく、現状で処理しきれない底抜け技術を強行し、その結果を未来の人たちに委ねるということが問題ですね。