大阪フィルの第40回岐阜定期演奏会に行ってきた。
10年ほど前から、この岐阜定期演奏会を聴きに行っているから、40回のうち1/4は行っていることになる。
40回といえばアニュアルな回数だが、もうひとつ記念すべきは、大阪フィルが当初、関西交響楽団として発足したのが1947年だから、今年は創立70年に当たるわけだ。
そんなわけで、アニヴァーサリーなムードが漂う演奏会だったが、一方、鎮魂の意味をも併せもったちょっと変わったムードでもあった。
というのは、演奏会が3月11日に開かれたとあっては、お祭り気分に浸ってのみでは済まされぬというわけだ。
そうしたアンビバレンツな様子は、プログラムにも表れていた。
前半はテナーとソプラノを伴ったオペラ絡みのもので、ヴェルディの「運命の力」序曲に始まり、マスネ「ウェルテル」から“オシアンの歌”(テノール)、グノー「ファスト」から“宝石の歌”(ソプラノ)、そしてプッチーニの「ラ・ボエーム」から“冷たい手を”(テノール)、“私の名はミミ”(ソプラノ)、“愛らしい乙女よ”(二重唱)の三曲。
そして前半の締めは、祝祭ムード一杯のヴェルディ「椿姫」から“乾杯の歌”といった具合。
ここまでは、惚れた腫れたの浮き立つようなもので、このコンサートの祝祭の部分を表現していた。
テノールは岐阜県出身で加納高校(私んちから徒歩10分)・音楽科卒で18歳にしてオペラ歌手デビュー、その後東京芸大へ進み、本格修行という逸材・城 宏憲。
ソプラノは、小林沙羅。「フィガロ」のスザンナ役、「カルメン」のミカエラ役などといったらそのイメージが掴めるだろうか。
いずれにしても二人ともまだまだ伸びしろのある歌い手として、今後の活躍が期待できる。
http://www.jvf.gr.jp/01jo-hironori.html
http://sarakobayashi.com/biography
とりわけ、城 宏憲はご当地のテナーとして熱い声援を受けていた。途中の休憩時間に、ロビーで支援者たちに取り巻かれてる姿を見かけたが、舞台上で見かけた感じほど長身ではなかった。それだけ大きく見せたのは芸の力か。そういえばむかし、藤圭子を至近距離(1メートル以内?)で目撃したが、TVの画面で観るのとは大違いで小さい人だと驚いたことがある。でも、眼力は強くて圧倒された。
後半はガラッと雰囲気が変わってチャイコフスキーの第6番「悲愴」。地の底から聞こえてくるようなファゴットの音色から次第に他の楽器を巻き込んで重層な音色へと成長してゆく。
いつもながら感じるのはチャイコフスキーの音楽の饒舌さである。時として装飾過多を思わせるこのてんこ盛り感は、ある意味でドストエフスキーの小説の饒舌に通じるものがあり、19世紀末の来るべき大転換の予兆、あるいはそれに対する不安を解消するための、これでもか、これでもかという力説のようなものかもしれない。
なお、この第6番はライブで効くのは3度目だが、いつも第三楽章の終わりで少なからざる拍手が起こる。指揮者が全身を震わせて終わる激しいこの楽章の終わりに、それが起こるのは無理もない。
実際の終楽章は、ファゴットの低音から始まったそれへと収斂するようにフェイドアウトとして静寂のうちに終わる。
これを3月11日の鎮魂歌として選んだのはわかるような気がする。
アンコールは同じくチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」の第三楽章“エレジー”だった。これもまた3月11日への気配りだろう。
大阪フィルは、持ち前の重厚な音色を聞かせてくれた。
指揮者の尾高忠明は今春から大阪フィルのミュージック・アドヴァイザーに就任し、18年からは音楽監督に就任予定とか。
この人、1947年生まれの70歳。大阪フィルと同い年ということになる。
この人の指揮ははじめて見たが、膝や腰の関節を柔軟に使い、リズミカルな指揮をしていた。楽曲を高揚に導くときも、また、フェイドアウトのように静寂に導くときも、いずれもその感触を全身で表現していて、とても明確な指揮だと思った。
演奏が終わって外へ出たらブルブルッとするほどの寒さ、いつも岐阜の春を告げるこの定期演奏会、今年はまだまだ寒いままだ。
かつては、このコンサート(ずっと3月に行われている)に自宅から自転車で来たのになどと思うのだが、よく考えてみれば、その頃は私自身がまだ若かったということだ。
いいコンサートだったと思う。10回ほど来ているせいか、大阪フィルとは相性がいいようだ。生きていたら来年も行きたいものだ。
10年ほど前から、この岐阜定期演奏会を聴きに行っているから、40回のうち1/4は行っていることになる。
40回といえばアニュアルな回数だが、もうひとつ記念すべきは、大阪フィルが当初、関西交響楽団として発足したのが1947年だから、今年は創立70年に当たるわけだ。
そんなわけで、アニヴァーサリーなムードが漂う演奏会だったが、一方、鎮魂の意味をも併せもったちょっと変わったムードでもあった。
というのは、演奏会が3月11日に開かれたとあっては、お祭り気分に浸ってのみでは済まされぬというわけだ。
そうしたアンビバレンツな様子は、プログラムにも表れていた。
前半はテナーとソプラノを伴ったオペラ絡みのもので、ヴェルディの「運命の力」序曲に始まり、マスネ「ウェルテル」から“オシアンの歌”(テノール)、グノー「ファスト」から“宝石の歌”(ソプラノ)、そしてプッチーニの「ラ・ボエーム」から“冷たい手を”(テノール)、“私の名はミミ”(ソプラノ)、“愛らしい乙女よ”(二重唱)の三曲。
そして前半の締めは、祝祭ムード一杯のヴェルディ「椿姫」から“乾杯の歌”といった具合。
ここまでは、惚れた腫れたの浮き立つようなもので、このコンサートの祝祭の部分を表現していた。
テノールは岐阜県出身で加納高校(私んちから徒歩10分)・音楽科卒で18歳にしてオペラ歌手デビュー、その後東京芸大へ進み、本格修行という逸材・城 宏憲。
ソプラノは、小林沙羅。「フィガロ」のスザンナ役、「カルメン」のミカエラ役などといったらそのイメージが掴めるだろうか。
いずれにしても二人ともまだまだ伸びしろのある歌い手として、今後の活躍が期待できる。
http://www.jvf.gr.jp/01jo-hironori.html
http://sarakobayashi.com/biography
とりわけ、城 宏憲はご当地のテナーとして熱い声援を受けていた。途中の休憩時間に、ロビーで支援者たちに取り巻かれてる姿を見かけたが、舞台上で見かけた感じほど長身ではなかった。それだけ大きく見せたのは芸の力か。そういえばむかし、藤圭子を至近距離(1メートル以内?)で目撃したが、TVの画面で観るのとは大違いで小さい人だと驚いたことがある。でも、眼力は強くて圧倒された。
後半はガラッと雰囲気が変わってチャイコフスキーの第6番「悲愴」。地の底から聞こえてくるようなファゴットの音色から次第に他の楽器を巻き込んで重層な音色へと成長してゆく。
いつもながら感じるのはチャイコフスキーの音楽の饒舌さである。時として装飾過多を思わせるこのてんこ盛り感は、ある意味でドストエフスキーの小説の饒舌に通じるものがあり、19世紀末の来るべき大転換の予兆、あるいはそれに対する不安を解消するための、これでもか、これでもかという力説のようなものかもしれない。
なお、この第6番はライブで効くのは3度目だが、いつも第三楽章の終わりで少なからざる拍手が起こる。指揮者が全身を震わせて終わる激しいこの楽章の終わりに、それが起こるのは無理もない。
実際の終楽章は、ファゴットの低音から始まったそれへと収斂するようにフェイドアウトとして静寂のうちに終わる。
これを3月11日の鎮魂歌として選んだのはわかるような気がする。
アンコールは同じくチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」の第三楽章“エレジー”だった。これもまた3月11日への気配りだろう。
大阪フィルは、持ち前の重厚な音色を聞かせてくれた。
指揮者の尾高忠明は今春から大阪フィルのミュージック・アドヴァイザーに就任し、18年からは音楽監督に就任予定とか。
この人、1947年生まれの70歳。大阪フィルと同い年ということになる。
この人の指揮ははじめて見たが、膝や腰の関節を柔軟に使い、リズミカルな指揮をしていた。楽曲を高揚に導くときも、また、フェイドアウトのように静寂に導くときも、いずれもその感触を全身で表現していて、とても明確な指揮だと思った。
演奏が終わって外へ出たらブルブルッとするほどの寒さ、いつも岐阜の春を告げるこの定期演奏会、今年はまだまだ寒いままだ。
かつては、このコンサート(ずっと3月に行われている)に自宅から自転車で来たのになどと思うのだが、よく考えてみれば、その頃は私自身がまだ若かったということだ。
いいコンサートだったと思う。10回ほど来ているせいか、大阪フィルとは相性がいいようだ。生きていたら来年も行きたいものだ。