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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

わが母校は城のなか、そして石垣の貌たち

2017-03-31 15:20:32 | 写真とおしゃべり
 しばらく前の日についての記述である。正確にいうと3月22日。
 フリーライター歴が20年近くになるが、もちろんそれで食べて行けるほどの収入はなく、年金外の収入としての小遣い程度である。それもそろそろ足を洗おうと思っている。
 仕事柄、何人かの人にインタビューをしてきた。その数、100人近くにはなるだろう。

          
 
 しかし、インタビューをされるのは少ない。今回その数少ない機会に遭遇した。
 なんのことはない、私自身が10年以上にわたって連載を執筆してきたその当のミニコミ紙にゲストとして登場するというわけだ。
 インタビュアーは旧知の同紙編集長だったH氏。だったと過去形で書いたのは、この3月、編集長を卒業して彼自身がフリーのライターになったからだ。

 私自身、いわゆる著名人ではないからパッとした業績もエピソードもない。H氏もまとめるためにけっこう苦労するのではと思うが、まずはお手並み拝見だ。
 インタビューを受けたのは名古屋市役所近くの「ウィルあいち」のロビー。ここは正式には、愛知県女性総合センターというらしい。

          

 その対面には、今は名古屋市市政資料館となっている旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(ようするに、名古屋地裁、高裁)があり、このレンガ造りの風格ある建造物は重要文化財となっている。
 ちなみに、1960年当時の安保闘争のデモで、道交法違反でパクられた仲間の裁判の傍聴に来たこともある。判決は罰金5千円であった。みんなのカンパで払った。

          
          
 
 話を戻そう。
 インタビューは順調に終わった。インタビューをする方もされる方も手慣れているから、聞きたいツボ、聞かせたい事柄などを要領よく取り交わした結果だろう。
 予備も含めて予定していた時間よりもずいぶん早く終わってしまった。この後映画を観ようと思っていたのだが、それまでの一時間余をなんとか埋めなければならない。
 そこでこのあたりを散策することとした。
 じつはこのあたりはとても懐かしい場所で、私の青春時代のピークはこのあたりを外しては語れない程ほどなのだ。

          
          
             
          
 
 学生時代の私の母校は二つに別れる。ひとつは昭和区滝子の旧第八高等学校で、教養部の頃はここで過ごした。すべて木造で、男子校の名残りでトイレも男性用、女性用が一緒といういまでは考えられないような環境であった。
 しかし、ここにも思い出がいっぱい詰まっている。昨秋、同人誌でご一緒のYさんから当時の写真を頂いたのだが、そこには18歳の(つまり60年前の!)Yさん、亡くなった連れ合いや私などサークルの仲間が何人か写っている。しかし、そのうちすでにかなりのひとが故人であることに胸を衝かれる思いがしたものだ。写真というものはある意味残酷だ。18、9歳という花の時期と現実とのめくるめくようなこの落差。

          
          
          

 私の話は散漫でいけない。上に書いた場所は今回訪れたところではない。
 今回訪れたのは名古屋城内の旧第六連隊兵舎があった場所で、今は毎年7月に大相撲名古屋場所が行われる愛知県体育館が建っている。
 そこに、学部時代の学び舎があった。
 当時、私が行っていた大学は、通称「タコの足大学」といわれ、名古屋市内や郊外に学部が分散され、それが本山近くに統合されたのは私たちが卒業する頃であった。

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 したがって私などは、統合された場所へ行ってもほとんどなんの感慨を覚えることもない。むしろ、郷愁をそそるのは犬山にある「明治村」である。
 なぜなら、ここの正門は、先にみた旧八校の正門をそのまま移築したものだし、学部へ入ってから学んだ旧第六連隊の兵舎は、やはり明治村の中に移築されているからだ。
 「昭和は遠くなりにけり」などといわれるが、私たちは明治の息吹が残る場所で学んでいたことになる。

          
          

 で、今回訪れた学部時代の建造物だが、それらはすべて撤去され、先に述べた愛知県体育館がドカンと居座っているのみで往年の風情を偲ぶべくもないが、ただひとつ、変わらぬものがあった。
 それは、私たちの学び舎を取り巻いていた名古屋城の石垣群で、今回はそれらを見て歩いた。当時は、当たり前の日常風景としてそれをちゃんと見ようともしなかった石垣だが、今回、改めて眺めてみて、こんなに表情豊かで素晴らしい歴史的建造物に取り巻かれていたのかといまさらながら感慨を新たにしたのだった。
 ようするに、石を積んだだけのものなのだが、その積み方に、あるいは積まれた石にそれぞれの個性があって、結果として部分々々で異なる豊かで多彩な表情を見せてくれることとなる。そして最終的には、今を去ること400年前にそれらをかくも表情豊かに積み上げた当時の石積み職人たちの技に、敬意を覚えることとなる。

          
             
          

 さきにも述べたが、石垣にとどまらずこの付近位には思い出が多い。今は空堀になっている箇所を通っていた通称・瀬戸電(名古屋鉄道瀬戸線)、市役所や県庁のレトロで重厚な庁舎、一本五円の串カツとキャベツ食い放題だった今はなき「外堀かつ」、城内から通った柳原温泉という名の銭湯。
 まさに、「腰に手ぬぐいぶら下げて」の青春であった。

          

 そしてそれら私の青春の日々をを見つめ続けてきた石垣たち、それをじっくり眺めていると、何やら崇高で荘厳な気配すら感じられるのであった。

 
コメント
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