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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「ふるあめりか・・・・・・・・」での玉三郎

2016-02-10 16:47:19 | よしなしごと
 私用のTVの録画リストを整理し、不要なものを削除し、未見のものを観るようにしている。どういうわけか、3年ほど前に頻繁に録画し、観ていないままのものがかなりある。そのなかから、有吉佐和子作「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台公演を、坂東玉三郎主演のもので観る。
 歌舞伎の世話物仕立ての演出だが、それが時代にマッチしていてなかなかいい。
 劇そのものもだが、玉三郎がすごい。変わり身というか場面々々での適応力がすごい。まわりが呑まれてしまう求心力をもった役者さんだと今更のごとく感心する。

                
 
 ストーリーは、状況に規定されながらも、それ自身極めて私的な物語というかエピソードが、逆に時代にフィードバックされて、天下国家の物語にされてしまう話だ。
 それを、その私的な細やかな部分にも立ち会ったハマの芸者お園(玉三郎)が、後半では天下国家の話に祀り上げられたその誇大妄想的な物語の語り部として現れる。
 
 しかし、こうした状況はよくあることともいえる。
 1932年の上海事件での爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、どうやら単なる事故で、命がけの突撃ではなかったようなのだが、格好の軍国美談としてもちあげられ、映画、歌謡曲はもちろん、演劇や小唄、琵琶から都々逸にまで歌われ、ついには、1941年以降、文部省国民学校の国語と音楽の教科書に載る騒ぎとなった。

                  
 
 こうした動きは、別に幕末や戦時中に限ったものではない。例えば、各種ハラスメントや差別、公害などで具体的な被害が生じている場合など、そこで具体的に解決すべきことを「体制」のせいにして、それらを「根本から」解決するために「わが党への一票」などに還元してしまうのは、主として「左翼」に見られる姿勢でもある。これらが単に解決の棚上げであることはいうまでもない。「抑圧されたらその場で闘う」ことが原則なのだ。

 随分横道に逸れたが、この芝居は、細やかな情感に満ちた私的な物語が、大状況への関わりとして喧伝されるとき、そこで生きられた具体的な物語は疎外され、怪物的なものとして消費の対象になるという過程を余すところなく表現している。

               

 その細やかな物語の端緒をもっとも知り尽くした芸者・お園が、その遊女・亀遊の物語を「攘夷のヒロイン」として語るハメになる過程が面白いし、お園自身が語り部としてさらに脚色の度合いを強めてゆくスパイラルのような様相も面白い。
 そして、繰り返しになるが、それを一身で表現する玉三郎の演技はすごい。
 芝居の後半は、まるで一人芝居を観ているかのようであった。

 行動する作家有吉佐和子の40歳少し手前の作品であり、演劇に詳しかった著者自身による脚本である。



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