「犬に名前をつける日」といういささか変わったタイトルは、無数の名もない犬、無数の名もない猫を生み出す人間たちと、そこから犬や猫を救い上げ、名を与えようとする人たちのある種バトルともいえる物語である。
名もない犬や猫を生み出す人たちとは、犬や猫を捨てる人たちである。彼らは一旦は犬猫を飼おうとするのだが、結局はそれを捨てる。捨てられた犬猫は「動物保護センター」に捕獲保管され、一定日数を越えたものは薬殺処分にされる。
その数、年間およそ12万匹。
そればかりではない。フクイチの原発事故で生み出された20キロ範囲内でのペットや飼育動物(牛、馬、山羊などなど)約50万頭の殺害が国家によって決定された(2011年5月)。
さらには、ブリーダーと呼ばれるペットの繁殖業者たちによる無節操な「商品」としての繁殖が拍車をかける。それらが利益を生まないとなるとあっさりと撤退し、何十、何百のそれらを放棄し、餓死させたりする悪徳業者の利益追求のみによる犬猫の生産方式がそれである。
山中での集団での犬の死体発見というミステリーはこうして生まれる。
売れ筋の「商品」を生み出すため、近親相姦の繰り返しで、メスの子宮はずたずたにされ、そして放置される。
これにより、名前のない犬猫が溢れ、そして「保護」の名でセンターに保管され薬殺される。ナチスのユダヤ人収容所のペット版である。
そこから動物たちを救い上げ、再び名のあるものにしようと闘う人たちがいる。
彼や彼女たちの活動(女性のほうが多い!)は感動的である。
地方自治体の「動物保護センター」に出かけ、薬殺処分寸前のペットに待ったをかけ、自分たちで引き取り、新たな里親を探したりする。
しかし、それだけでは動物たちを救いきれない。
広島市の中年カップルは、「動物保護センター」に持ち込まれたすべての犬猫を自分たちで建てた保護地域に引き取る。その数は千に近くなる。おかげで、2014年の広島市の薬殺処分数は0になったという。
その活動を全国のNPOや有志たちがカンパや餌の提供、自分たちの労力の提供で支える。
彼らは、フクイチ20キロ圏内で飢えかかっているペットをも救出する。
それらを収容する保護施設を栃木県内に設置する。
そこで収容し、元の飼い主がわかっている仮設住宅ぐらしの人々(ほとんどが老人でペットの飼育が禁止されたいる)に対し、月一回の面会で仮設を訪問する。放置されてから何年も経つのに、元の飼い主を覚えていて甘える犬にはこちらの涙腺も緩む。
映画はこうした情景を、飼い犬に死なれてペットロスに陥った小林聡美が扮するTVディレクターの取材内容として写しだしてゆく。その取材内容そのものが上に述べた内容である。
したがって映画の80%はドキュメンタリーで、残りの部分がフィクションといえる。その境界は極めて曖昧で、それがこの映画をリアルなものにしている。
観ていると、小林聡美自身が監督のように思えてくるが、監督・脚本は別にいて、山田あかねさんという女性である。
ドキュメンタリー8、ドラマ2というこうした映画の作り方に賛否はあるようだが、事態の感傷的な部分をドラマとして表現し、現実を真っ直ぐ見つめる部分をドキュメンタリーとしたこの映画は、やはり成功していると思う。
ドラマと現実の境界にいる小林聡美のその存在感が、総じてこの映画のリアリティを保証しているように思った。
最後に、安易にペットを求める人々と、それへの「商品」としての供給を生業とするブリーダー(増殖業者)の相互のもたれ合いによるペットブームそのものに、名のある存在であった犬猫が名もなき「モノ」として薬殺処分対象になる要因が潜んでいることをこの映画は余すことなく描き出している。
いうならば、「資本主義」に踊る商品生産者のブリーダーと、それに踊らされペットを飼ったものの、「諸般の」事情によりそれを放棄する無責任な消費者の共演こそが、ここに描き出されているものなのである。
そして、もうひとつ「大枠の資本主義」として、地域格差につけ込んで強要される原発、そこで一旦事故が起きれば生活圏を奪われて散り散りに仮設へ閉じ込められる住民たち、そして、放置され避難すらままならないため、あえなく生命が奪われる何十万の動物たち・・・その過程も見逃せない。
この階段を登った先にきれいな映画館がある
これを観たのは、名古屋今池のキノシタホールという二番館。私のように「映画は劇場で」派にとってはありがたい存在だ。封切り時に見逃したものを改めて観せてくれるからだ。
とても綺麗な劇場で雰囲気もいい。なのに・・・、私が観た回(15:00~)の観客は、ああ、私一人だった。次の回を待っていたのも女性一人きりだったから、後で駆けつた人がいなければ連続一人のための上映だ。
キノシタ、頑張れ!ここで上映する映画なそんなにハズレはない。映画好きなひとはキノシタをマークして、封切り時見逃したものを是非観てほしい。
名もない犬や猫を生み出す人たちとは、犬や猫を捨てる人たちである。彼らは一旦は犬猫を飼おうとするのだが、結局はそれを捨てる。捨てられた犬猫は「動物保護センター」に捕獲保管され、一定日数を越えたものは薬殺処分にされる。
その数、年間およそ12万匹。
そればかりではない。フクイチの原発事故で生み出された20キロ範囲内でのペットや飼育動物(牛、馬、山羊などなど)約50万頭の殺害が国家によって決定された(2011年5月)。
さらには、ブリーダーと呼ばれるペットの繁殖業者たちによる無節操な「商品」としての繁殖が拍車をかける。それらが利益を生まないとなるとあっさりと撤退し、何十、何百のそれらを放棄し、餓死させたりする悪徳業者の利益追求のみによる犬猫の生産方式がそれである。
山中での集団での犬の死体発見というミステリーはこうして生まれる。
売れ筋の「商品」を生み出すため、近親相姦の繰り返しで、メスの子宮はずたずたにされ、そして放置される。
これにより、名前のない犬猫が溢れ、そして「保護」の名でセンターに保管され薬殺される。ナチスのユダヤ人収容所のペット版である。
そこから動物たちを救い上げ、再び名のあるものにしようと闘う人たちがいる。
彼や彼女たちの活動(女性のほうが多い!)は感動的である。
地方自治体の「動物保護センター」に出かけ、薬殺処分寸前のペットに待ったをかけ、自分たちで引き取り、新たな里親を探したりする。
しかし、それだけでは動物たちを救いきれない。
広島市の中年カップルは、「動物保護センター」に持ち込まれたすべての犬猫を自分たちで建てた保護地域に引き取る。その数は千に近くなる。おかげで、2014年の広島市の薬殺処分数は0になったという。
その活動を全国のNPOや有志たちがカンパや餌の提供、自分たちの労力の提供で支える。
彼らは、フクイチ20キロ圏内で飢えかかっているペットをも救出する。
それらを収容する保護施設を栃木県内に設置する。
そこで収容し、元の飼い主がわかっている仮設住宅ぐらしの人々(ほとんどが老人でペットの飼育が禁止されたいる)に対し、月一回の面会で仮設を訪問する。放置されてから何年も経つのに、元の飼い主を覚えていて甘える犬にはこちらの涙腺も緩む。
映画はこうした情景を、飼い犬に死なれてペットロスに陥った小林聡美が扮するTVディレクターの取材内容として写しだしてゆく。その取材内容そのものが上に述べた内容である。
したがって映画の80%はドキュメンタリーで、残りの部分がフィクションといえる。その境界は極めて曖昧で、それがこの映画をリアルなものにしている。
観ていると、小林聡美自身が監督のように思えてくるが、監督・脚本は別にいて、山田あかねさんという女性である。
ドキュメンタリー8、ドラマ2というこうした映画の作り方に賛否はあるようだが、事態の感傷的な部分をドラマとして表現し、現実を真っ直ぐ見つめる部分をドキュメンタリーとしたこの映画は、やはり成功していると思う。
ドラマと現実の境界にいる小林聡美のその存在感が、総じてこの映画のリアリティを保証しているように思った。
最後に、安易にペットを求める人々と、それへの「商品」としての供給を生業とするブリーダー(増殖業者)の相互のもたれ合いによるペットブームそのものに、名のある存在であった犬猫が名もなき「モノ」として薬殺処分対象になる要因が潜んでいることをこの映画は余すことなく描き出している。
いうならば、「資本主義」に踊る商品生産者のブリーダーと、それに踊らされペットを飼ったものの、「諸般の」事情によりそれを放棄する無責任な消費者の共演こそが、ここに描き出されているものなのである。
そして、もうひとつ「大枠の資本主義」として、地域格差につけ込んで強要される原発、そこで一旦事故が起きれば生活圏を奪われて散り散りに仮設へ閉じ込められる住民たち、そして、放置され避難すらままならないため、あえなく生命が奪われる何十万の動物たち・・・その過程も見逃せない。
この階段を登った先にきれいな映画館がある
これを観たのは、名古屋今池のキノシタホールという二番館。私のように「映画は劇場で」派にとってはありがたい存在だ。封切り時に見逃したものを改めて観せてくれるからだ。
とても綺麗な劇場で雰囲気もいい。なのに・・・、私が観た回(15:00~)の観客は、ああ、私一人だった。次の回を待っていたのも女性一人きりだったから、後で駆けつた人がいなければ連続一人のための上映だ。
キノシタ、頑張れ!ここで上映する映画なそんなにハズレはない。映画好きなひとはキノシタをマークして、封切り時見逃したものを是非観てほしい。