六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

悪霊とはなんだろうか ドストエフスキー『悪霊』を読む

2016-02-07 01:42:07 | 書評
以下は長文で退屈ですから読む必要はありません。

 それほどの大著ではないが一年をかけて読んだ小説である。
 ドストエフスキーの『悪霊』(米川正夫:訳)、岩波文庫で四分冊のボリュームがあるからといって、決して読むのに一年かかるほどのものではない。
 
 複数の本を同時に併読する癖がある私は、この書に関しては、文庫本という手軽さもあって、外出時に読むことに限定していた。
 具体的には、名古屋ヘ行く折の往復の列車内、人との待ち合わせの待ち時間、クリニックの待合室などなど、ようするに家では一切読まないということだ。
 ところで、この岩波文庫、一昨年、書棚を整理していて見つけたもので、奥付を見たら昭和45(1970)年とある。実に45年ほど前に購入し未読のままに放置してあったのだ。すごい「積ん読」だ。
 当時の文庫本のハトロン紙のカバーもそのままだし、小口からヤケが内部まで進んでいるが、やはり読んだ形跡は全く無い。

 最後、どこで読み終えたかというと、左腕の骨折で入院した病院の病室においてであった。読みはじめのコンセプト通り、終始「わが家の外」で読んだということである。
 したがって、この文章も入院先の病室で書いている。

■どんな小説なのか
 
 で、内容についてであるが、大著であるがゆえにかいつまんで語ることは容易ではない。舞台は帝政ロシア末期の地方都市、さまざまな登場人物が織りなす群像劇風である。地方都市ゆえのいびつさや滑稽さのようなものもあるが、考えてみれば、それらは当時のロシアそのものの縮図であるのかもしれない。
 そしてこの群像劇は、4分冊目に入り、県知事夫人肝いりの舞踏会を皮切りに一挙に終盤のカタストロフィに突入する。

 変動期である。何かが起ころうとしている。しかし、それが何かがわからないまま人々が右往左往している。この状況は、チェーホフが横断面として静謐とその破綻としえがいたものだが、この小説ではもう少しダイナミックにことが進む。
 一握りのグループが、その変動を自分たちの意のままにしようとし、また、なしうるとして暗躍する。しかしそれとて、漠然としていて彼らの大半は、その「活動」が偉大なる「共同の事業」のためと了解しているのみでその詳細を知るところはなく、一定の混乱を引き起こすものの各メンバー自体がそれがどう「彼らの」大義と結びついているのかもわからないまま最終的には自滅の形で瓦解する。
 この辺りは、かの連合赤軍事件を髣髴とさせる。

■「悪霊」とは何? 誰? 

 それでは、悪霊とは何であり、もし人物に模することができるとすれば誰だろうか。
 いささかロートルで、もはや時代とはずれてしまっているような田舎の「インテリゲンチャ」スチェバン氏(ピョートルの父)と、この地の地主ヴァルヴァーラ夫人(スタヴローギンの母)との関係は、20年来の後者による前者の庇護関係にあるが、同時に両者の間にはいささか屈折した愛情関係がある。
 スチェバンは、いまでも何がしかの影響力を保持したがっているが、もはや状況から置いて行かれた田舎文士にすぎない。

 当初、放浪の旅から故郷へ帰ったスタヴローギン自体が「悪霊的な」様相をもって登場する。その言動は常軌でもってしては測りがたい。しかし読み進むうちに、彼はいわば「求道的な」実存主義者であるように思えてくる。カミユの『異邦人』のムルソーが、太陽のもとでの実存主義者であるとすれば、スタヴローギンは北国の実存主義者であるといえる。そして求道的というのは、彼は他の求道者との面談などを通じて「浮動する実存」の着地点の模索を図るからだ。

 前半のヴァルヴァーラ夫人に代わって、後半は県知事夫人・ユリヤが狂言回しを務めるが、軽薄な新しがり屋で諸潮流への浅薄な理解に基づいて行為する夫人は、それが故にピョートルに内懐にまで飛び込まれ、さんざん愚弄され利用される。
 夫人ほどの覇気もなく、ひたすら愚鈍な県知事は、ピョートルに用心はするものの、その跳梁を止めるだけの力はない。彼らは、ひたすら道化役者としての道を進むに過ぎない。

■陰謀者・ピョートル

 残る主要人物はスチェバン氏の息子、ピョートルである。
 当初彼は、スタヴローギンの腰巾着にして取り巻きで、しかも道化師のように登場するが、しかしやがて、彼自身が周到な陰謀家にして策士であり、スタヴローギンそのものをその陰謀に巻き込み利用しようとしていることが見えてくる。
 彼の張り巡らした罠は後半に至ってほぼ目論見通りに実現する。たとえ、その後その真相が見破られるとはいえ、それは彼のせいではない。他のメンバーが脆弱だったからだ。
 彼は、他のメンバーの動揺や日和見にもかかわらず、一貫して冷徹である。そして、この騒動の外へと逃れ去る。

 では彼が悪霊なのだろうか。たしかに彼は悪魔的ではある。目的のためには手段を選ばず、まゆ一つ動かさず人を殺める冷徹さを持つ。しかも、自分が暴力的であるばかりではなく、ひとを操り、籠絡し、自分の手をくださずしてことを為す。
 しかし、それを悪霊とはいわない気がする。敢えていえば、そうした営為自身が悪霊にとり憑かれたものとはいえよう。
 ならば、彼にとり憑いたものとは何か。この大ロシアを根底から覆す「偉大なる共同の事業」か。そうしたものにとり憑かれ、イデオロギーとテロルで他者を蹂躙するありようを「悪霊」と表現するのは、スターリニズムやナチズムの全体主義を批判するには好都合で、あながち的外れでもあるまい。

 しかしそう言い切って済ますには、なおかつ、悪霊の悪霊たるもの正体はつかめないままに残るのではあるまいか。

■集団ヒステリー的事態の推進 
 
 この小説の中で、ドストエフスキーはある主観や欲望にに基づいて行動する人たちがそれに裏切られ思いがけない地点に至るさまや、かれらが、自分の欲望とは違う言動へと誘導されるさまを諧謔を込めて描写する。そして、それが喜劇であるとともに最後のカタストロフィともいうべき悲劇の連鎖へと至る。
 それは、著者の目や、それとともに事態の推移を鳥瞰する読者には、そうした虚実の織りなす諸エピソードの集積が、曼荼羅図のように見て取れるのだが、登場人物はそうした鳥瞰図を持たないまま、それぞれを突き動かす衝動に従い、闇雲に行動するしかない。
 そしてその背後には、噴火間近な火山の蠕動のような予兆不能な時代の痙攣がある。

 で、ひとつの仮説だが、そうした蠕動に呼応して人びとを闇雲に突き動かし、悲喜劇模様の騒擾のうちに登場人物の誰しもが予想し得なかったカタストロフィヘと至るような、そうした死への本能(タナトス)にも似たエネルギーこそが「悪霊」なのかもしれないということだ。
 だから、すべての人が、この悪霊にとり憑かれている。
 一見、自らの企てに一度は成功したかのようなピョートルにしても同様だ。彼は、なにはともあれ、騒乱こそがロシアの覚醒にとって必要なのだとただそれのみをこの地で実現し、そして去る。しかし、そうした単なる騒乱からは、どのような理性も立ち上がることはない。ただ、騒乱の犠牲者が横たわるのみだ。彼にもし、何らかの達成感があるとしたら、それこそまさに悪霊の成果でしかない。

■登場人物についての補遺
 
 以下、登場人物について関心を引く2、3について述べておきたい。
 スタヴローギンについては既に述べた。ピョートルは彼の腰巾着のようなふりをしながら、それを利用し騒乱の要因に仕立てあげるのだが、形而上的な存在であるスタヴローギンにとって、そうした利用し利用される関係はあずかり知らぬ俗界の出来事にすぎない。ピョートルは、彼のまわりを跳ねまわるゲスにしか過ぎない。彼の女性遍歴にしてもその根底には欲望もあるのだろうが、それに「流されてみる」という趣がある。

 その相手になり、ピョートルの企む騒乱の一要素にもなり、自らの命をも落とすリザヴェータ(リーザ)は、聡明で誇り高き女性である。彼女はその存在においてスタヴローギンに対応する。
 彼女のスタヴローギンへの愛は、ピョートルの陰謀に利用されることになるのだが、利用されたその結果をわが目で見届けるという潔癖さを併せもっている。そしてそれが、彼女の命取りになるのだが……。

 ドストエフスキーが、ほとんど諧謔を交えず描いている一群の人たちがいる。
 自らの運命に逆らうすべをもたない純真なダーリアは、一時はヴァルヴァーラ夫人のねじれた愛情の犠牲になり、父親ほど離れたスチェバンの妻にされそうになった。そんな彼女とスタヴローギンは最後にともに過ごすことを望むのだが、そのスタヴローギン自身がそれがありえない夢であることを一番良く知っていたし、それは実現することなく最後の悲劇へと至る。
 先にみたリザヴェータも諧謔の対象たることを免れている。
 また、スタヴローギンの正妻である気の触れた女性マリアもまた、著者のシニカルな描写から免れている。
 思うにこの人たちは、自らが抱く主観と客観の乖離がさほど著しくない人たちといえる。

■ロシアのニーチェ 

 自殺願望者のキリーロフは、スタヴローギンと並ぶもう一人の形而上家であり、ロシアのニーチェである。
 彼は瞬間、永久調和を直感する。それは、恐怖に満ちているとともに大いなる喜びにも満ちている。この辺りの叙述は、ニーチェが永劫回帰を感得する瞬間と相似形である。
 さらに彼は、別のところで、「神は死んだ」についても語っている。
 「もし神があるとすれば神の意志がすべてだ」、しかし、神がないとすれば、すべては自分の意志に還元される。彼はそれを「我意」と呼ぶ。我意こそが神に代ってすべてを決定し、その結果を引き受けなければならない。
 このくだりは、ニーチェの「力への意志」にパラレルである。ニーチェの「ツァラトゥストラ」は、永劫回帰を巡るこうした啓示に「イエス!」といって立ち向かうのだが、実際のニーチェはといえば、それに耐えかねたように狂気へと陥る。
 そしてキリーロフは、そのように生きることの不可能性を予め自覚し、自死を選ぶこととなる。

■「私」とは誰か

 別に哲学的な主体論争としての私を問題にしようとしているのではない。
 この小説で語り手として「私」が登場するが、その彼についてである。
 すべての局面で彼が語り手であるわけではない。彼がまさに臨場する場面、あるいは伝聞としての情報を再現する場面で、その他、彼のあずかり知らぬところで生じる事態に関しては語り手抜きに物語は進行する。
 ところで、この「私」であるが、スチェバン氏の若い友人であることはわかるが、その他は不詳である。大抵の場合、ニュートラルな存在に徹しているが、県知事夫人主催の講演会とダンスパーティ(これが最終のカタストロフィへ雪崩れ込む幕開けなのだが)では、運営委員の一員として、はじめてポジティヴな役回りで登場する。
 おそらく、そうした委員のうちもっとも冷静である「私」は、危険な徴候を察知してその回避へと務めるのだが、「私」にとってももはや事態は制御不可能である。「私」の抑制を促す声にもかかわらず、自己を見失った県知事夫人やスチェバン氏の行為は滑稽にも負のスパイラルとして働き、ピョートル一派の思う壺へと転落する一方である。
 それらを必死で押しとどめていた「私」ではあるが、周辺の頑迷な自滅的動きについには業を煮やし、委員の腕章を投げ捨てて辞任してしまう。もっとも、彼がその位置にとどまっていたからといって事態の転落を押しとどめることは不可能だったろう。
 ようするに、この「私」は、スチェバン氏のようになおかつ自分が何者かであるかのような悪あがきはせず、冷静ではあるが、やはり無力なインテリゲンチャの一端を為すというところか。だからこそ、著者によって語り手に指名されたのだろう。そしてその任に関しては臨場感に溢れた語り手ではある。

■再び「悪霊」について

 私は、この小説読解の主観的仮設として、「悪霊」を、「人びとを闇雲に突き動かし、悲喜劇模様の騒擾のうちに登場人物の誰しもが予想し得なかったカタストロフィを生み出す、その死への本能(タナトス)にも似たエネルギー」としてみた。
 これが的を射ているかどうかはともかく、この小説は、ロシアの一地方都市の限られた期間に起きた破局劇を描写しているとはいえ、やがてそれが、ロシア全土を襲うであろうことも当然その視野に入れた小説といえる。

 こうした人びとの憑かれたような破局への陥落を私たちも過去の歴史のなかでみてきた。
 関東大震災を契機にした朝鮮人や社会運動家の虐殺、その後の無謀な戦争への突入、これらは、広範な人びとをまさに憑かれたように巻き込んだ不可逆の事態として、破局の泥沼へと事態を誘導したのであった。
 私たちはそうした「悪霊」から今なお、決して自由ではない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  しばしのお別れ ご報告と... | トップ | 梅の香に送られ、梅の香に迎... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。