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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「もし世界の終わりが明日だとしても・・・」と桜ん坊 付:破局論

2015-05-11 00:39:53 | よしなしごと
 完熟の「桜ん坊」(なんとなくこの表記が好きだ)を収穫した。
 といっても、あえて書くほどのことはない。
 写真を撮る気力も失せるほどの収穫量だったからだ。
 したがって、ここに載せた写真も昨年のものだ。

 昨年すでに収穫は激減していた。木の半分ぐらいが枯れてしまったからだ。最盛期には、写真ぐらいの量を、一日置きに3、4回は採ることができた。それが昨年はここに載せた写真の分ぐらいを一度採り、あとは落穂ひろい程度だった。
 そして今年は木の4分の3が枯れ、収穫はさらに激減し、ついに豆腐の空き容器一杯分ぐらいにしかならなかった。

 もはや木そのものの寿命と思われる。じつは、いまの木も2代目で、初代の脇に生えていたものがうまく引き継いでくれたものなのだ。
 そんなこともあって、3代目たるべく新しいものを数年前から鉢植えで育ててはいる。しかし、まだ花も咲かないから、来年からしばらくは空白ができることは必定だろう。

          

 そうした事情も鑑み、4代目を準備することとした。
 今回採ったもののうち、熟しすぎて茶色がかったもの、半分鳥たちに食われてしまったものなどの種から育てようと、三つほどの鉢に分けてそれらを蒔いたのだ。このうちどれかは発芽するだろう。

 ところで、これらが芽を出し、成長し、花をつけ、実を宿すのはかなり先のことである。そしてその時まで私が生きていることはもちろん不可能だろう。第一、いま育てている3代目だって間に合う可能性は極めて低い。

          

 種を埋めながら、「もし世界の終わりが明日だとしても、今日私は林檎の種子を蒔くだろう」という言葉を思い出していた。
 この言葉は、ゲオルグ・ゲオルギウ(1901ー65年)というルーマニアの共産党書記長を務め、スターリンの忠実な代官ともいわれてルーマニアに独裁体制をもたらした人の言葉である。東欧革命の際、処刑されたチャウシェスクはこのゲオルギウの後継者に当たる。

 こうした彼の経歴は全く好きになれないが、この言葉は美しいし、共感することができる。
 というのは、私はある意味では悲観論者で、人類は確実に自己消滅という破局への道をひた走っていると思うのだが、かといって生きる希望をもたないわけではない。

          

 まずは、その破局への接近という事実をいい続けたいし、少なくともそれには加担したくない。できれば抵抗もしたい。その限りで、予測としては悲観的であっても、それからの離脱への可能性を自他に確認し続けるという行為において、希望を失うものではない。
 だから、種を蒔き続ける。そしてそれは、希望を捨てないということ、未来から今を規定するループした円環的な時間のうちに身を委ねるということなのだと思う。
 
 そう、特攻隊で確実な死に直面した若者たちが、これで国家が救われるなどという実利的で強要された価値付けとは別に、自分の生命を実存として位置づけようとして到達したひとつの立場のように。

          

 桜ん坊はこんな有り様だし、琵琶ももう小さい実がついていなければならないのだが、どうも駄目なようだ。
 そんななか、桑が健闘していて、今年は豊作のようだ。
 こちらの方は正真正銘、今年の今現在だが、ご覧のようにびっしり実が付いているし、もうそろそろほんのり色づいているものもある。

 捨てる神あれば拾う神ありだ。


人類の破局 科学技術の無政府的な発展拡散(ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報に関するもの、認知技術などの融合、核兵器の存在と原子力機関の存続)、そしてそれらと結びついた極端な経済至上主義、さらには、それらを統御しているかのように振る舞いながらもその下僕でしかない政治。これ以上破局の要因を数え上げる必要はあるだろうか。

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2 コメント

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知りたい (杳子)
2015-05-11 09:07:16
「林檎」の言葉が、どんな状況で言われたものなのか知りたくてネットで検索したら、これは革命家じゃなくて同名の作家がルターの言葉を引用したんだとか、いろんなことが書いてありました。
革命家だろうが、作家だろうが、宗教家だろうが、オリジナルだろうが引用、孫引きだろうがかまわないけれど、みんなそれぞれどんな状況で、どんな思いでこう言ったのかが知りたい。みんな「希望を捨てないということ、未来から今を規定するループした円環的な時間のうちに身を委ねるということ」なのだろうか?
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私の受容 (六文銭)
2015-05-11 12:08:32
 杳子さん
 たしかにこの言葉の原典には諸説あるようですね。私は当初、確か、寺山修司が書いたもので見かけたので、それを採用しました。
 たとえそれを発した人の生涯に、後世から見て歪みがあろうとも、ある時点において彼らが美しい言葉を発することがありえますし、また、それが発せられた状況とは関わりなく、それを解釈し受容することもありうると思ったからです。

 で、私の解釈や受容ですが、予測と自己の行為とのズレのようなものがまず一点にあります。
 予測者としての私にとっては、諸データから観て、悲観的な結論が不可避であるとしても、もし自分の中でそれが肯定し得ざるものの場合には、「否」と言い、それを広言し、そうでないものへの希望を語り、そうでないことを前提とした実践(林檎の種をまく)をすることがありえます。
 これは、ある意味では、「歴史的必然」といわれるもの(ヘーゲルの理性の狡知)などに抗うことでもあります。その場合、私は、あるいは私たちは、ある意味で、奇跡の到来を告げる預言者の位置に身をおくことになります。そして、その予言によって、予測自体が変更されることがあります。
 これは人間のみがなしうる歴史の「自己超越」ともいうべきもので、予測に基づく、あるいはそれに反する予言が人々の行為を規制し、その結果が予測されたデータが増幅されたり、逆に、それに反する結果が到来したりします。

 この場合、「もし世界の終わりが明日だとしても」というのは予測に関する範疇であり、「今日私は林檎の種子を蒔くだろう」はそれに反する予言の領域になります。

 もうひとつは、「人類」と「私」との関連です。「もし世界の終わりが明日だとしても」は人類の範疇として語られます。たしかに私は、人類の一員たることは免れえませんが、しかし、そこでの思考や判断は「人類」という抽象物が行ってくれるわけではなく、あくまでも「私」や「あなた」という具体的な個に委ねられます。したがって「今日私は林檎の種子を蒔くだろう」というのは人類のいかんにかかわらず私という個が自分を現実に投げ出す行為です。それは、人類とは異なる私の時間、私の未来が私に語りかけるループとして行う私の行為です。
 私の希望は、人類の希望(客観的と言われる予測)のうちにではなく、私に対して私の未来から語りかけるループした時間の中で、それに応答することにあります。それが、「今日私は林檎の種子を蒔く」という行為がはらむ希望です。

 これは、私なりの解釈と受容であることを申し添えますが、私自身が、半ばそうした境地を生きているのではと思っています。
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