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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

明治維新以降の半分を生きて・・・

2015-05-14 18:02:55 | 歴史を考える
 日本が近代国家としてデビューしてから約150年、私はその半分を生きてきた。ものごころついた時には先の戦争の終盤、疎開をし、その疎開先でも爆撃に見まわれ、広島と長崎に「特殊爆弾」が投下され、玉音放送なるものがあって戦火が止んだ。

          

 自国民300万、近隣諸国2,000万の犠牲を踏まえて不戦の誓いがあり、その精神のもと現行憲法が施行され、この国は戦争をしない国として生まれ変わった。だから、自衛隊ができたとき、人びとは「逆コース」ではと批判した。思えば、憲法はこの頃からじわじわと侵食されながらも、「戦力なき軍隊」などという奇妙な論理のもと、自衛隊はかろうじて憲法の支配下に置かれていたかにみえた。
 しかし、この戦争なき70年の歴史は憲法をも飛び越えた軍事法案によって今やピリオドが打たれようとしている。戦争をしないという稀有なこの国は、いつでも戦争をしうる普通の国に生まれ変わろうとしている。

          
 
 はじめの数年を戦争に支配されながらも、その後の70年間、戦争のない状況下で生きてこられたのはきっと僥倖なのだろう。これから生きる人たちは、プレ戦時状態、あるいは戦時状態そのものを生きねばならないだろう。
 想定されている戦争のひとつは、アメリカが主導する2001年来のテロとの戦いだ。この闘いは宣戦布告もないし戦線そのものもない。その戦いの担い手として名乗りを上げた以上、日本国民は、その予めの布告も戦場や戦線も定かではない不定形な戦争へと投げ出されたことを意味する。いつでも戦場、どこでも戦場だ。
 これまでだって間接的には当事者だったのだが、これで晴れて直接の当事者となることができた。もう、“Show the flag”といわれなくとも済む。もはや旗幟は鮮明なのだから。

          

 この世に生を受けて七十数年、ふるさとの河川に回帰する鮭が嗅ぐように、懐かしい香を感じとることができる。あの大日本帝国の危険な匂いだ。ついに「日本は取り戻された」のだろうか。主権者が主権者ではなかったあの体制のもとに「取り戻された」のであろうか。
 今振り返ってみると、私が若き日に闘った反戦平和の運動は、様々な過ちを含みながらも、今日の事態へ至らないためのものだったことが分かる。同時に、そこで敗れ続けたことが今日へ至ったことを自責の念をもって振り返らざるをえない。
 私はだいたいにおいて悲観主義者だから、明るい展望などは語れない。だが、諦めたわけではない。まだまだ引き返すべき点はあるはずだ。そのとき、引き返す方へと己を投企すべく、賭け金はとっておきたい。


              (この国が戦後最大の曲がり角を回ったと思われる日に)
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